ダイナミック・アジアⅡ(12)<最終回> 人材育成と新たな多文化共生問題に挑むマレーシアの高等教育 杉村美紀

「マレーシア高等教育計画ブループリント(2015-2025)」


 グローバル化や国際化を積極的に進めているマレーシアの高等教育は、その一方で近年深刻化している雇用問題と人材育成、ならびに多文化共生実現の課題のもとで、知識基盤社会に必要な人材確保と、そのためのラーニング・アウトカムを重視した教育改革を推し進めている。現在顕在化している諸問題の概観を図1に示したが、その経緯や背景を順を追って見ていきたい。

留学生送り出し国から国際交流拠点国へ

図1 マレーシアの高等教育における重層的な課題

 マレーシアの高等教育は、ここ20年の間に大きく変化した。それを象徴するのは、グローバル化や国際化政策のもとで、かつての留学生送り出し国から受け入れ国へと変容を遂げたことである。マレーシアでは1957年の独立以来、教育が国民統合と国家発展のための人材育成の要として重要な役割を果たしてきた。高等教育は、初等・中等教育と比べ、当初は特定のエリート層を対象とした教育であったが、1990年代に入り高まる進学需要を受けて、政府が民営化を促進し、1996年に私立高等教育機関法をはじめとする高等教育改革に関連する6つの法律を施行すると、高等教育機関は私立大学とそこでの英語プログラムの急増により一気に多様化した。特に高等教育の国際化により、クロスボーダー教育やそれによる共同学位プログラム、海外大学の分校開校等が進んだことは、それまでマレー系優先政策によるクォータ制度のもとで大学進学の機会が制限されていた中国系やインド系等、マレー系以外の学生の国外留学の流れを大きく変え、国内での教育機会の拡充を促した。この結果、高等教育の就学率は、ユネスコの統計によれば1980年の4%から1990年には7%、2000年には26%、そして2015年には41%までになった。そればかりか、英語プログラムの登場は海外からの学生の進学先としての魅力に繋がり、近隣のアジア諸国をはじめ、中東やアフリカ諸国からの留学生移動の流れを生んだ。こうしてマレーシアは、今日では留学生受け入れにおいて世界の国際交流拠点の1つとなっている。

 こうした高等教育の戦略的展開を受け、2004年に教育省とは別に高等教育省が設けられた。高等教育省はその後2013年に教育省に再統合され、2015年にまた分離したあと2018年に再々統合されるという紆余曲折を経るが、この間一貫してその時代の要請に即した人材育成に主眼がおかれ、優秀な頭脳流出問題への対応と留学生受け入れを含めた優秀な人材の確保が企図されてきた。

「マレーシア高等教育計画ブループリント(2015-2025)」による現行の教育改革

 マレーシアの教育改革は、1970年から5年ごとに提示される「マレーシア五カ年計画」の中でその方針が示されてきたが、特に今日の高等教育については、2007年に当時の高等教育省が定めた「国家高等教育戦略計画」(National Higher Education Strategic Plan : NHESP)によるところが大きい。そこでは、マレーシアを高等教育における国際的な「教育ハブ」にするという目標が設定され、知識基盤社会をにらんでの高度人材育成と人材獲得という側面がより強く打ち出された。そして、この「国家高等教育戦略計画」の後継として2015年7月にナジブ首相(当時)が発表したのが「マレーシア高等教育計画ブループリント(2015-2025)」(Malaysia Education Blueprint 2015-2025(Higher Education): MEBHE、以下、「高等教育計画」)である。本計画では、2007 年の時とは異なり、既に世界の留学生移動の一拠点となったマレーシアにとって、研究開発やイノベーティブな教育の重要性が強調されている。そこでは、留学生数の量的な拡大と交流の活発化を中心に考えられてきた高等教育の国際化に加え、社会の目まぐるしい変化を受けとめ、求めるべき価値観や能力の問い直しと、革新的な科学技術や新たな知の創造を担うことができる人材育成及び確保という観点が重視されている。その概観を図2に示した。

 この「高等教育計画」について、マレーシアの高等教育関係者は、具体的成果と目標を数値化した2007年の「戦略計画」と比べ、「国家教育指針」(National Education Philosophy:NEP)に基づき高等教育の意義と特徴を再確認し、NEPで謳われた「マレーシア人としてのアイデンティティーを持ったグローバル・シティズンの育成」という教育理念を重視している点が特徴的であるとしている※1。また、ガバナンス、効率性、財政、キャリアやリーダーシップの醸成の各観点について参考指針が示されている。なかでもラーニング・アウトカムに重点を置き、マレーシア認証資格委員会(Malaysia Qualifications Agency :MQA)による質保証枠組みを重視することで、公立・私立教育基準の統一が図れるとしている点は特徴的である。特に私立機関については、国の質保証枠組みへの準拠を求め、財政支援の割合は質保証の達成状況で決められることとなった。こうした動きは、国際社会において議論されている情報テクノロジーやコンピュータを駆使したICT教育と技術職業教育訓練(Technical and Vocational Education and Training : TVET)の関連性、ならびに批判的思考やコミュニケーション・スキル、態度といった21世紀型スキルの修得を基盤とするラーニング・アウトカムをめぐる議論とも繋がる。


図2 「マレーシア高等教育計画ブループリント(2015-2025)」の重点課題


「マレーシア高等教育計画ブループリント(2015-2025)」による現行の教育改革

 「高等教育計画」では、アウトプットだけではなくアウトカムも重視するとされ、新自由主義の影響のもと、教育の効率性と対価を考えて展開されるべきであるとされている。そして、2025年までに高等教育への「進学率」を48%(2012年)から70%へ、また卒業生の雇用率を現在の75%から80%以上へ向上させるとしているが、そこには2000年代以降、高等教育の就学率が上がるにつれて問題になってきた高学歴の若年層失業問題がある。この背景には、マレーシアの人々が、特にプランテーションや製造業、サービス業、家事労働といった低賃金で重労働が伴う仕事を忌避する傾向があり、高等教育の修了者は希望に叶う職を得ることが難しいという状況がある。同時に、「高等教育計画」では、高等教育を受けた者が、知識や技術・態度といった点で必ずしも企業が求めている資質を十分に身につけているわけではなく、高等教育修了者と企業のニーズとの間にミスマッチが起きていることも併せて指摘している。今回の「高等教育計画」で挙げられた10の重点課題(Shifts)のうち、国際化やグローバル化よりも先に、第1~第4課題において高等教育のアウトカムに焦点が当てられているのはそのためである。そして具体的な方策としては、技術職業教育訓練を行う高等学習機関(Higher Learning Institute)と大学教育を同等の「高度な教育(Higher Education)」とみなし、ITや製造業などの職業スキルを学ぶ場となっていることを強調している。また、失業率の悪化を防ぐとともに、半熟練労働者の不足への対応が打ち出されている。政策の重点項目に生涯学習の推進が取り上げられ、大学や技能訓練学校での学び直しに取り組もうとしている点も、人材確保のための方策であると言える。

 マレーシア社会の問題をさらに複雑にしているのは、高等教育修了者の雇用問題がある一方で、単純労働や非熟練労働者の不足を外国人労働者の受け入れによって当面補おうとしている点である。1990年代に始まった政府の外国人労働者受け入れは、インドネシア、ネパール、バングラデシュ、インド、ミャンマー等のアジア諸国の出身者が多く、マレーシア人と比べて学歴も低い。こうした外国人労働者の流入は、ブミプトラ政策のもとでもなかなか解消してこなかったマレーシア人の中でのマレー系と非マレー系の就労格差に加え、マレーシア人に対してさらに低い就労格差を抱えた外国人労働者という新たな社会階層を生み、マレーシア社会における人材育成という課題をさらに複雑なものにしている。

新たな多様化に直面する高等教育

 外国人労働者の流入による社会の多様化は、高等教育にも影響を与えている。同じく人材育成や確保という視点から展開されている留学生の受け入れが、高等教育の現場では新たな文化摩擦を引き起こしているからである。外国人労働者と同様に、1990年代後半からの国際化やグローバル化に伴う留学生の流入は、前述のようにマレーシアを国際交流拠点とするとともに、新たな多文化共生問題を生んでいる。一時期、中国人留学生が多かったのに対し、その後、バングラデシュやインドネシア、インド等のアジア諸国、中東のイランやナイジェリアといったアフリカ諸国からも留学生が増えた。マレーシアが留学生にとっては第三国への留学通過点(トランジットポイント)となっていることは拙稿※2でも述べたが、他方でホスト社会としてのマレーシアに社会文化変容を起こし、エスニック・グループ間のバランスにも影響を与えるようになっているのである。

 「高等教育計画」の国際化戦略では、受け入れ留学生数を大学院レベルの受け入れ留学生数の増加を含めて2015年当時の10万8000名から25万名へ増加させることと、そのための海外での広報強化が挙げられており、今後も留学生受け入れ国としての方向性は堅持されようとしている。そしてクアクアレリ・シモンズ(QS)ランキングにおけるマレーシアの大学の位置づけを、上位200校内に1校という現状から、上位100校までに2校、上位200校までに4校へと増加させることが目標とされている。その一方で、マレーシア国内の多様な民族が、多様性を背景とした共通の価値観や共通の経験を共有することを政策上の目標として掲げており、ここには、今日のマレーシアが抱えている「高等教育において多文化共生をいかに実現していくか」という問題の複雑さが示されている。

 具体的には、こうした変化に対応するため、マレーシアでは英語プログラムを拡充する一方で、留学生も含めたマレーシア居住者の「シティズンシップ」の形成を軸に国家の歴史や制度、現状のシステム等を総合的に教える「マレーシア研究」という科目を導入している。国際化やグローバル化を進め、他国・地域とのプログラムの共有を進める一方で、こうしたホスト社会のローカライゼーションを進めようとする動きは興味深い。

マハティール新政権と高等教育戦略

 さらに新たな教育改革の動きをもたらしているのが、2018年5月の総選挙で野党連合「希望連盟(Pakatan Harapan)」から立候補し、1957年のマレーシア独立後初めての野党政権を担うことになったマハティール新政権である。首相引退から14年余りを経た92歳での同首相の再就任はそれだけでも話題になったが、「100日間で実現する10の公約」を掲げて機動力のある政権運営をアピールした。そうしたなかで、マハティールが1980年代に提唱し、かつての在任中に注力した東方政策(ルックイースト政策)を再度掲げたことは、高等教育戦略に大きなインパクトを与えている。マレーシアには既に、両国政府の共同プロジェクトとして設立された日本マレーシア国際工科院(MJIIT)がある。同機関は2001年にマハティール首相(当時)が小泉首相(当時)に提案し、マレーシアにおける日本型の工学系教育を行う大学として構想がスタートしたが、その後紆余曲折を経て、最終的には2011年9月に国立マレーシア工科大学(UTM)の傘下に独立性の高い工科院として開校された。講座制等の特色ある日本型工学教育による高度な専門性に基づく学術研究機関とされ、将来的にはASEANにおける日本式工学教育の拠点として発展していくことが期待されている。日本は機材整備等の円借款供与と25の大学が政府機関、国際協力機構、日本商工会議所とコンソーシアムを組んで教員派遣等の協力に当たっている。

 日本側はMJIITを東方政策の集大成と位置づけてきたが、これに対してマリク高等教育相は、マハティール首相が日本の高等教育機関を、単に日本的価値観や労働倫理を学ぶだけではなく日本の教育制度や文化を学ぶ場として引き続き重視し、1980年代に始まった東方政策を今後も継続しようとしていると述べている。マレーシア教育省の報道によれば、MJIITとは別に、マレーシア政府は、筑波大学、日本デザイナー学院ならびに立命館アジア太平洋大学に対してマレーシアへの分校開設を誘致しており、早期の実現に期待を寄せている※3。

 マハティール首相は2年以内に首相の座を譲る方針であるといわれる。併せて2018年の総選挙時には、「希望連盟」の政策提案の中に、これまで公認されてこなかった私立の華文教育機関が独自に実施する修了資格「統一試験」を公認する等、華文教育関係者の教育要求を盛り込んでおり、新政権の教育政策に注目が集まっている。1980年代までは外交関係はあっても実質的な交流はほとんどなかった中国の大学との交流も、今では様々な共同学位プログラムが設けられ、2014年には中国の「厦門大学マレーシア分校」が開校している。厦門大学は、中国福建省出身で英領マラヤのシンガポール華僑であった陳嘉庚が1921年に郷里に設立した大学であるが、今度は逆に同大学がマレーシアに分校を開設したという点で、中国とマレーシアの二国間関係を印象づけるものとなった。1990年代にグローバル化が進展した時とは国内外ともに異なる政治的社会的背景が見られるなかで、マレーシアの高等教育戦略も、単にグローバル化と一括りにはできない新たな局面が登場しており、それはポストグローバル化を予見させる動きでもあることに留意する必要がある。

  • Chang Da Wan, Morshidi Sirat & Dzulkifli Abdul Razak (2019)
    “Conclusion” in Chang Da Wan et al. eds. Higher Education in Malaysia:A Critical Review of the Past and Present for the Future.
    Penerbit Universiti Sains Malaysia and Penerbit Universiti Sains Islam Malaysia.,pp.424-426.
  • 杉村美紀(2010)「高等教育の国際展開におけるトランジットポイント」『カレッジマネジメント』160号(2010年1-2月号)、34-37頁.
  • Ministry of Education Malaysia (2018).
    “Three Japanese unis to open branches in M'sia” in Higher Education Today (2018年12月2日付)
    【外部リンク】http://news.moe.gov.my/2018/12/02/three-japanese-unis-to-openbranches-in-msia/(2018年12月31日最終閲覧)

(杉村美紀 上智大学総合人間科学部 教授/グローバル化推進担当副学長)


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