ダイナミック・アジアⅡ(10)ベトナムの高等教育戦略 関口洋平 近田政博
FPT 大学本部棟
ハイテクパークの風景
ベトナムの首都ハノイから1時間ほどバスに揺られて西方に向かうと、延々と続く田園の中に国家の肝いりで開発が進められているホアラク・ハイテクパークが見えてくる。そこではベトナムの大手通信企業FPTグループをはじめ、多くの企業のビルの建設が進められつつあるが、その一角にFPTグループが2005年に設立した私立大学「FPT大学」がある。FPT大学では幾何学的なデザインの本部棟が正門の前に構えられており、広大なキャンパスは寮生活を送る学生の活気にあふれている。FPT大学の学生は、大学卒業後の就職活動を見すえながら、その多くが情報学や機械工学、経営管理等を専攻し、同時に日本語や英語をはじめとする外国語を積極的に学んでいるのである。
こうした大学の様相は、近年のベトナムにおける高等教育の改革を象徴するものである。1986年にドイモイ(刷新)政策を打ち出して以降、「工業化」と「現代化」を推し進めるベトナムでは、高度職業人材の養成が求められるようになるなか、高等教育は一貫して重視されてきた。とりわけ1990年代半ば以降、ベトナムでは高等教育の量的拡大が図られる過程で、国内外の様々な資源・資本を活用するべく高等教育の市場化と国際化が積極的に進められている。近年の高等教育改革の取り組みからは、ベトナム政府の高等教育改革への並々ならぬ意思や、人々の教育に対する熱意が伝わってくる。
「マス化」する高等教育
ドイモイ体制以前のベトナムの高等教育は、社会の一握りの「エリート」のためのものであり、その目的は国家公務員の養成であった。大学は国家や共産党による厳しい管理と統制のもとに置かれ、入学者選抜から教育の内容、そして卒業後の学生の進路に至るまで国家計画に従わなければならなかった。しかしながら、ドイモイ体制のもとでは、国家の限定的な財源の中で高等教育を丸抱えするのをやめ、公立大学の法人化や運営自主権の拡大、そして民営セクターの導入を積極的に行ってきたのである。
こうした緩和政策は、高等教育の量的拡大をもたらした。1986年度と2015年度を比較すれば、おおよその高等教育就学者数は10万人から200万人を超えるまでに拡大している。また、高等教育の就学率に関してベトナムには公式な統計は存在していないが、既存の統計数値を利用することでおおよその進学率が分かる。ベトナムの学制は5-4-3制であり、小学校と中学校が義務教育となっている。2015年度を見てみれば、18歳人口の概算は2003年度の小学校入学者数とほぼ等しく、その人数は160万2556人である。一方、ベトナムの高等教育には在職課程と呼ばれる社会人のためのプログラムがあるが、これを除いた正規課程の高等教育(大学・短大)入学者数は52万9450人であるので、便宜的に計算すると2015年度の高等教育の進学率は33.0%となる。ここからは、現在ベトナムの高等教育は「マス化」段階に入っていることがみてとれる。
株主が経営する私立大学
ベトナムにおける高等教育の急激な拡大を支える要因の1つに、1990年代以降設置が進められてきた「非公立大学」と呼ばれる民営セクターの成長がある。1990年代以降ベトナムは、民営セクターの創出をはじめとして、多様なタイプの大学を作り出すことで高等教育の市場への適応や質の向上を図ってきた。とりわけ民営セクターでは、ドイモイが進められる過程で民営大学の多様化が進められてきた。まずは民立大学と呼ばれる、共産党が理事会と関わって大学を監督するいわば「社会主義的私立大学」の設置が進められ、実験的に高等教育の民営化が行われた。その後2005年には私立大学の設置が正式に認可され、現在では私立大学への一元化が進められている。
日本の私立大学とは異なり、ベトナムの私立大学の興味深い点は、理事会メンバーが全て株主によって構成されることである。私立大学の株主とは、機関設置に携わった出資者やその関係者を指す。株主総会を通じて機関の発展計画や教育研究の方向性を決定する。当然、私立大学は株式を発行することができ、それを元手に資産運用が可能である。こうしたベトナムの私立大学経営方式は、企業経営ないし運営の論理に明るい株主を擁する点で、資金調達をしやすい。具体的にベトナムの企業が設立した私立大学を挙げれば、冒頭で述べたFPT大学のほかに、紡績系企業によるグエン・タット・タイン大学等がある。こうした私立大学では、多くの教員が非共産党員であるとともに企業での勤務経験を持っており、母体である企業の理念に基づいた教育が行われている。私立大学では、情報学や経営学、それから外国語等のように市場での需要が高い専門科目が多く提供されている。
こうした私立大学のあり方は、ベトナムの大学により1990年代後半以降に進められてきた「社会化」と呼ばれる教育財源の多様化を図る政策に基づくものである。「社会化」政策を展開する過程では、高等教育をより魅力的な投資先にするため、営利を目的とした教育機関の運営が認められるようになった。私立大学は授業料、寄付金のほかに株式からも運営資金を調達できるようになったのである。2000年代以降、私立大学を中心にベトナムでは学生は顧客と認識されるようになり、「商品」としての高等教育のあり方が議論されるようになっている。現在ベトナムでは、高等教育の市場化がより一層進んできている。
就職率開示の義務化
高等教育の市場化は、私立大学のみならず公立大学の管理運営のあり方にも変化を生じさせてきた。公立大学に対しても運営自主権を与えていくことで、より主体的・能動的に市場に適応するとともに、質の高い教育を提供することが目指されるようになっている。こうした大学の運営自主権を高めていくという方針のもと、大学はより自主的な運営が可能になるとともに、学生の学びも変化してきているのである。まず入学者選抜試験を見てみよう。ドイモイ体制以前では、試験の方法や、採点・合格者の決定、そして大学ごとの募集定員数の策定も国家が行っていた。しかし、ドイモイが進む過程では、一部の学部や私立大学等で入試の方法を大学が独自に決めることができるようになったり、大学が一定程度募集定員を計画・策定できるようになったりしている。また近年では、採点後の合格者の最低点数を大学が独自に決められるようになっている。より多くの学生を集めたいという大学側の思惑から、最低合格点数を極めて低く設定する大学が続出しており、学生の質の保証がベトナム社会や教育訓練省によって問題視されているのである。
また、学生の就職活動をみてみれば、1990年にベトナムでは国家計画に基づく卒業生の職業分配制度が廃止され、これ以降学生は自ら就職活動を行わざるをえなくなった。現在ベトナムでは、大学には「市場で売れる」人材を養成すること、学生には市場に適応することが求められるようになっている。現時点では、多くの学生は卒業後に始まる就職活動に当たってSNS等のインターネット上の求人サイトを参考にしている。
こうした状況から教育訓練省は、2018年より高等教育の質保証の一環として各大学に卒業生の就職率の開示を義務づけており、開示をしない大学には学生募集にあたり一定の制限を設けることとしている。近年の就職率は全体として80%程度とされるが、この数値は大学により大きく異なっている。データによれば、都市部の有力大学である国民経済大学(96.4%)、ハノイ大学(93.3%)、カントー大学(88.6%)等の就職率は良いものの、地方の大学である中部のハティン大学(61.5%)、北部のタイバック大学(49.4%)では就職が困難な状況がうかがえる。ベトナムではいわゆる「新卒採用」制度がなく、企業側は即戦力となる人材や威信の高い大学の卒業生を好んで採用する傾向にある。
教育課程の弾力化
大学入試や就職活動のほか、教育課程についてもドイモイ体制下では国家による統制が徐々に緩和されていき、現在では学長の責任のもとに全ての教育課程が大学ごとのイニシアティブで作成されるようになった。また、新たな学部や学科の開設についても、教育訓練省の決定を介すことなく自主的に設置することができるようになっている。このことから、各大学は経済や雇用機会の状況を見極めながら、大学ごとの個性・独自性を高めるような教育課程を弾力的に提供できるようになっている。多くの大学で経営学や国際法、情報学等、「市場で売れる」分野が集中的に開設されたため、こうした分野の乱立を招いている。その結果として、威信のある大学の新設学部には学生が集まる一方で、そうでない大学の場合は学生が集まらず、新設学部が翌年に廃止されるというケースも報じられている。
こうした問題に通底しているのは、多くの学生を引き付けることでいかに大学の財源を増やすか、そして大学教員の給与をいかに向上させるかという財源確保に関わる問題である。ベトナムでは、全体として物価は低いものの、教員の月給は日本円で1~2万円程度と驚くほど安い。また公立大学の学費もおおよそ年間3~4万円と極めて安く、大学は運営自主権が拡大するなか、それぞれが財源獲得のためにしのぎを削っている。
日越間の高等教育交流
現在ベトナムは、高等教育の質的向上のために外国の投資家や威信の高い外国大学による参入を積極的に進めてきている。そうした方策の1つとして、外国大学と連携するケースが多く見られる。近年では、フランスやドイツ、日本等の外国との連携で大学の共同設置が進んでいる。なかでも日本の協力によって設立された日越大学は、ベトナムにおける先進的な大学モデルとして発展しつつある。
日越大学設置の直接的なきっかけは、2009年に第一回「日越学長会議」が開かれ、先端的かつグローバルな人材の育成を目的として、ベトナム首相により日越間の国際協力を通じて大学を設置することが提起されたことによる。これを受けて、2016年に日越大学が発足した。現在、日越大学のキャンパスはハノイ市内にあるが、将来的にはホアラク・ハイテクパークに移転予定となっている。
2018年現在、日越大学は修士課程のみを開設しており、具体的には①地域研究、②公共政策、③企業管理、④ナノテクノロジー、⑤環境工学、⑥社会基盤、⑦気候変動の7つのプログラムが提供されている。各専攻では日本の大学の協力のもとでプログラムが作成されるとともに、日本人講師が多く派遣され、いずれも最先端の専門教育が展開されている。こうした専門科目に加えて、各プログラムにはインターンシップが含まれており、大学院生の就職活動を積極的に支援している点も日越大学の特色である。具体的に修士課程の「ナノテクノロジー」プログラムを見てみれば、表1のようになっている。日越大学の学生は、共通科目でサステナビリティ学をはじめ、文理融合的な視点から先端的な学問体系を学ぶとともに、それぞれの専門分野を修めることを目指している。同時にまた、日本での就職を視野に入れて日本語教育では、「会食時・車両に乗るときの席次」や「仕事を行う際の時間感覚」といったビジネスマナーの講座も実施されている。
2018年7月には、日越大学では第一期生の56名が修士課程を修了し、卒業生の多くはベトナム系企業や日系の企業に就職している。なかには、日本の大学の博士後期課程に進学する学生もいる。日越大学の修了生は、日越関係の架け橋として産業界・学術界で活躍することが期待されている。
日越大学は学士課程や博士課程など順次開設する予定であり、将来的には5000人規模の総合大学を目指している。学士課程では教養教育(いわゆるリベラル・アーツ)を重視する予定であるという。日越大学は伝統的に専門科目の学習が重視されてきたベトナム高等教育のあり方に対して風穴を開ける可能性を持っている。
高等教育の質をどう高めるか
以上のように、ベトナムは市場を「てこ」にして抜本的な高等教育の改革を行ってきた。近年では私立大学のみならず、公立大学も「市場で売れる」人材をどれだけ輩出しているかが高等教育の成果の指標になりつつある。企業によって運営される私立大学では、設立母体の企業理念のもとで教育を行っている。教員の中には実務家や企業勤務経験者が多く存在している。公立大学では市場で需要のある特定の専門分野が増設傾向にある。こうした状況のもとで、実務家や民間企業出身者を増やせば高等教育の質は高まるのか、大学は市場が求める人材を養成するだけで良いのかという問いが浮かび上がる。
こうした課題はベトナムの私立大学経営陣の認識するところとなっている。FPTグループでは、教員の専門性を高める研究活動を奨励する取り組みを実施している。例えばグループ傘下のFPT国際学院では、教員の研究活動を奨励するため、ISI等の著名な学術誌に論文が掲載された場合に、論文1本につき5000米ドルを教員に給付している。またFPT大学では、教員の研究活動が奨励されているのに加えて、教員に高次の学位を取得することを求めている。設立に当たりFPTグループの会長が傘下の日本語教育センターの教員を大学教員として採用したこともあり、修士号や博士号を持たずに壇に立つ教員は少なくない。
学士号しか持たない教員は、本務校での教育に従事するかたわら、ほかの大学の修士課程や博士課程に在籍し、学位論文の作成に取り組んでいる。大学教員として昇進するためには、修士号は最低条件であり、威信の高い大学ではさらに博士号を要求される。このため、若手の大学教員は多くの授業を抱えながら、自身の学位論文作成、研究活動、家庭生活とのバランスに苦心している。さらに近年では本務校で認証評価の作業等も課されるため、ベトナムの大学教員の日常は、以前と比較してかなり多忙になりつつある。「あれもこれも」求められるという点では、日本の大学教員と似た状況にあると言えるかもしれない。高等教育の市場化や国際化を進めていくなかで、いかにしてその質を担保し、向上させるか、これこそが今日のベトナムが直面する課題である。
関口洋平 広島大学 教育開発国際協力研究センター 研究員
近田政博 神戸大学 大学教育推進機構 教授