ダイナミック・アジアⅡ(8)長期的な社会変革を見据えたタイの高等教育戦略 鈴木康郎 カンピラパーブ・スネート

マヒドン大学サラヤ・キャンパス
マヒドン大学サラヤ・キャンパス


高等教育に対する変革への圧力

 近年のタイにおける高等教育は、国外からの圧力によって、変革を余儀なくされている。それは、市場経済とグローバリゼーションという2つの潮流によるものであると言われる。

 特に、2015年11月に発足したASEAN経済統合体(AEC:ASEAN Economic Community)は、東南アジア加盟10カ国の域内で、サービスや投資の自由化を推進しようとする大きなうねりであり、今後のタイ社会に大きな変革を迫る圧力となっている。教育分野において、AECは、グローバリゼーションの進む世界の中で、知識基盤型の国家を発展させることのできる人材養成に力を注ぐことを要請している。具体的に高等教育の分野においては、学生のモビリティを促すこと、国際的な質を保証すること、英語教育を改善すること、教員やスタッフの質を高めること、単位互換システムにより流動性を高めること等が求められており、今後20年をかけて新しい知識基盤型社会への移行を目指すタイにとって、その成否が鍵となる。

長期経済プランと高等教育

 タイは、地理的に東南アジア大陸部の中心に位置する国であり、その地政学的なメリットを生かし、1980年代以降、経済発展を続け、2010年より世界銀行の定義する上位中所得国の仲間入りを果たした(なお2015年現在、ASEANにおいて高所得国はシンガポール、ブルネイの2カ国、上位中所得国はタイとマレーシアの2カ国である)。しかしながら、国内の政治的混乱、自然災害等が逆風となるなか、GDP成長率は鈍化傾向にあり、世界市場経済の中で競争力を維持することが大きな課題として突きつけられている。

 こうした課題に対応するべく2016年に打ち出されたのが、「タイランド4.0」(Thailand 4.0)という革新主導型経済への移行を志向した社会変革のビジョンである。これは、戦前の第1段階(農業)、戦後工業化の始まった第2 段階(軽工業)、現在の第3段階(輸出志向の重工業)から脱却し、イノベーションや生産性をキーワードに、ICTを活用して付加価値を持続的に創造できる経済社会を構築しようとする構想である。2014年5月の軍クーデターによって発足したプラユット暫定政権は、2017年に憲法を改正し、同憲法で「国家戦略」を策定することが規定された。この国家戦略の方向性を示したビジョンが「タイランド4.0」であり、20年をかけた長期計画のもとに2036年までに高所得国入りすることを目標としている。「タイランド4.0」の開発アジェンダを、効果的に推進・達成していくために重要な鍵として位置づけられているのが、知識基盤社会に適合した教育システムの構築とそれに伴う国民の質の向上である。タイ教育省の国家高等教育委員会(OHEC :The Office of the Higher Education Commission)は、「タイランド4.0」を支える、未来の世代の青写真として、豊富な知識を有し、高度に熟練した技術を持ち、社会的な責任を果たし、タイのアイデンティティーを保持しつつ、技術を創造的に活用できる人材を育成することを掲げている。

量的拡充の実現と新たな課題

 タイの高等教育機関は、設置形態別に国立大学、私立大学、コミュニティ・カレッジに分けることができる。2017年現在、国立大学81校、私立大学75校、コミュニティ・カレッジ20キャンパスの計176校である。国立大学には、無試験で入学可能なオープン大学2校、教員養成カレッジを前身とし1990年代に総合大学へと昇格したラチャパット地域総合大学38校、2005年に工科学校から大学へと統廃合されたラチャモンコン工科大学9校が含まれている。

 1971年に設置され、タイ各地に学習サテライトが点在するラムカムヘン大学と、東南アジア初の通信制大学として1978年に認可されたスコータイ・タマティラート大学は、オープン大学として高等教育需要をまかなう役割を果たしてきた。2015年現在のオープン大学在籍者数は、36万9184人であり、高等教育在籍者全体の17.8%を占める。また、地域の教育振興を目的に、地域の職業に根ざしたカリキュラムが提供され、準学士を授与するコミュニティ・カレッジも、地域における高等教育ニーズの受け皿として役割が期待されている。一方、私立大学の在籍者数は、31万3273人(15.1%)であり、国立と比べて割合は低い(図1参照)。


図1 タイにおける高等教育機関別在籍者数


 このような高等教育機関拡充の流れを経て、タイの高等教育において、量的な発展は十分に達成したものと評価されている。タイにおける高等教育学齢人口(18-21歳)は、2016年現在、381万9215人である。うち、学士以下の高等教育在籍者は187万6539人であり、在籍率は49.13%に到達している。なお、プラユット暫定首相は、2016年6月に、幼稚園から高等学校卒業程度までの15年間の学費を無償にする決定を行った。この15年無償教育の実現により、今後高等教育へのアクセスがより進むことが見込まれる。

 一方、今後、タイにおいては、他のASEAN諸国に先駆けて少子高齢化が進むことが予測されている。高齢化率が14%を超えると「高齢社会」と定義されるが、世界銀行の推計によるとタイでは、2022年に高齢社会に突入すると予測されている。こうした状況を受けて、タイの高等教育は量的拡充から、以下に述べるような、質に関わる様々な問題に取り組んでいく必要に迫られることとなった。

高等教育の質の保証に向けて

 質の保証については、1999年の国家教育法の規定に基づき、初の第三者評価の実施主体として、2000年に国家教育水準・質評価局(ONESQA: Office for National Education Standards and Quality Assessment)が設置された。ONESQAは、大学のみならずタイにおける教育機関の質を高めることを目的に、公正な評価を行うために独立した組織として設けられている。第三者評価に関しては、実施主体をONESQAとすること、評価の周期を5年に一度とすること、評価基準を満たしていない場合には、改善勧告を行うこと、等が基本的事項として定められている。

 さらに、これまで述べたように、タイにおける高等教育は、量的拡充の段階を終え、「タイランド4.0」を支える高度な人材を輩出することを目指し、質の保証を達成しようと模索している段階にある。例えば、「第2次長期高等教育計画(2008~2022年)」においては、高等教育の質に関わる問題解決に焦点が当てられ、その方策の一つとして既存の高等教育機関を機能別に分類し、各分類に応じた高等教育の発展と評価の仕組みを設けることが提言された。この提言を受け、高等教育機関は、①コミュニティ・カレッジ、②学士教育中心の文系大学、③理系・特定領域に特化した学士・大学院レベルの大学、④大学院に重点を置く研究中心の大学、の4つに分類されることとなった。

 また、2009年10月にASEANの中核学習センター構築を目指し、9つの国立大学(タマサート、チュラーロンコン、カセサート、コンケン、チェンマイ、マヒドン、キングモンクット工科トンブリ、スラナリー工科、プリンス・オブ・ソンクラー)が研究拠点大学(NRU: National Research University)として選定され、重点予算配分を受けることとなった。こうした措置は、AECをにらみ、高等教育の質の向上が急務になったことを示唆している。具体的にNRU構想においては、世界大学ランキングにランク入りすること、ASEANの教育ハブとしての水準を満たすこと、産業界との連携により研究成果を経済発展に直接結びつけること、等が目標として掲げられている。実際に、英国の大学評価機関が公表しているQS World University Ranking 2018においては、カセサートの40位を筆頭に、チュラーロンコン、マヒドンの3大学が、分野別順位で150位以内に名を連ねている。

グローバリゼーション対応の推進とAEC

 タイにおいては、「第1次長期高等教育計画(1990~2004年)」を契機に、本格的な高等教育の国際化政策が打ち出された。そこでは、国際化に関連する提言として、①言語・経営・コンピュータ等、国際社会で活躍できるような資質を獲得させること、②学士・大学院レベルにおいてインターナショナル・プログラムを導入・推進すること、③一部専門分野において海外の高等教育機関と同等のカリキュラムを開設すること、が打ち出された。こうした点から、同計画はタイにおけるグローバリゼーション対応の高等教育改革の出発点ということができる。

 インターナショナル・プログラム(IP : International Program)とは、タイ国内の高等教育機関において、外国語(ほとんどが英語)を教授用語とするカリキュラムを提供するコースである。IPでは、教育水準が国際的であること、諸外国との学術交流を積極的に行うことも指針として示されている。IPは、タイ人と外国人留学生のいずれもが対象となっており、外国人留学生受け入れのみならず、留学を志向するタイ人学生のニーズを国内でまかなう役割を果たしている。

 2014年現在、全769プログラムのIPが開講されているが、1993年当初の132プログラムと比べ大幅に増加していることがわかる。IPの課程別内訳は、学士課程249、修士課程290、博士課程224、その他6となっており、大学院レベルのプログラムが過半数を占めている。また、設置者別の内訳は、国立大学27校で667、私立大学17校で102となっており、その多くが国立で提供されている。現在、国立大学学部・大学院の多数のプログラムにおいて、一般の学部・学科とIPが併設されている状況にある。なお、入学に関するIPの特色として、英語能力をはじめ入学要件を国際基準に沿って設定しており、タイ国内の一般国家教育試験(O-NET:Ordinary National Educational Test)の成績が重視されない点、授業料が高額である点があげられる。このため、高度な英語教育を受けてきた富裕層出身のタイ人学生が、有名国立大学の学歴を手に入れるためにIPに入学するという現象が見られ、批判を受けている(図2参照)。


図2 タイにおけるインターナショナル・プログラム数の推移


 また、IPは英語教育の振興という面からも注目する必要がある。ASEANにおける唯一の公用語は英語であり、AECの進展するなか、今後ますますコミュニケーション言語として、英語の重要性が高まっている。一方で、タイの学生の英語コミュニケーション能力は必ずしも高くない。例えば、国際的な成人の英語能力を比較するための指標とされるEF EPI英語能力指数(2017年)において、シンガポールが5位、マレーシアが13位であるのに対し、タイは80カ国中56位(アジアで20カ国中15位)と低い位置に留まっている。その背景には、小学校から大学まで基本的にタイ語を教授用語としていること、コミュニケーションよりも暗記重視の教育方法が根強いこと、タイ語が名実ともに支配的な公用語であること等が指摘されている。しかしながら、こんにちのタイの高等教育においては、タイの教育を国際的水準にまで高めるうえでも、AECによる域内交流の手段としても、コミュニケーションのための英語能力向上が不可欠となった。

 留学生受け入れについては、「第7 次高等教育開発計画」(1992~1996年)以降、外国人留学生、とりわけアジアからの外国人留学生の受け入れが、タイの高等教育の基本方策となっている。2013年現在、タイは、1万8814人の外国人留学生を105の機関で受け入れている。統計を取り始めた2002年の3339人に対し、5.6倍の伸びを示しているが、2011年をピークに漸減傾向にある。出身国上位の内訳は、中国6663人、ミャンマー1610人、ラオス1372人、ベトナム1083人、カンボジア1018人となっており、中国とCLMV(Cambodia,Laos, Myanmar, Vietnam)諸国で占められていることに特色が見られる。CLMV諸国からの留学生受け入れを推進している背景には、東南アジア大陸部における教育ハブとしてのプレゼンスを高めること、高等教育をタイで受けることによりタイの基準に沿った技術移転を広められること、等が指摘できる(図3参照)。


図3 タイにおける外国人留学生受け入れ数の推移


 なお、AECの実現によって、ASEAN地域の人的資本が持つ全ての潜在能力を積極活用するため、高度なスキルを持った熟練労働者の移動を推進していくことが求められている。こうした移動を円滑に行うための枠組みとして、ASEANでは、8つのセクター(エンジニアリング、看護、建設、医療、歯科、観光、測量、及び会計監査)について相互承認枠組み協定(MRA: Mutual Recognition Arrangement)が結ばれている。現状ではMRAによる域内移動は進んでいるとは言い難いが、今後、高等教育はこうした分野について多くのプログラムを提供する必要がある。学生モビリティ促進に向けた施策の一つとして、タイでは2014年度より大学に新しい学年暦を導入し、8月開始となったが、高等学校との接続・気候等の点から旧学年暦に戻す動きがある。

 こうしたASEAN域内の交流プログラムに対し、ASEAN+3(日中韓)の一員として、日本は積極的に関与している。例えば、ASEAN統合に向けた学部向け学生交流プログラムとして2010年に開始されたAIMS(ASEANInternational Mobility for Students)プログラムに、日本は2013年度より参加している。AIMSは、ブルネイ、インドネシア、日本、マレーシア、フィリピン、タイ、及びベトナムの7カ国の各大学が、大学間コンソーシアムを立ち上げ、1学期間(最長2学期)の交流プログラムを実施するものであり、各国政府はそれを支援する。

 さらに進んだ高等教育の国際化として、国際的な大学間連携が推進されており、「トランス・ナショナル」な学位プログラムも導入されている。2015年度現在、138のプログラムが提供されており、その内訳は、ジョイント・ディグリーが8(5.8%)、デュアル・ディグリーが77(55.8%)、ナショナル・ディグリーが51(タイの学位=39、外国の学位=12)(37.0%)、トリプル・ディグリーが2(1.4%)となっている。なお、ナショナル・ディグリーとは、1学期から1年間程度の海外留学がカリキュラムに組み込まれているが、卒業時には在籍大学の学位が授与されるプログラムである。カウンターパートの機関を国別に見ると、中国が29.0%、アメリカが15.2%、英国が10.1%、日本が8.7%、その他37.0%である。こうした、国家の枠を超えたプログラムの発展を促しているものに、「頭脳流出」(brain drain)から「頭脳循環」(brain circulation)へという考え方の転換がある。かつての、留学生を送り出してそれが人材の流出につながるという懸念よりも、こんにちでは優れた人材をいかに海外から誘致するのか、あるいは海外に出てしまう人材をいかに母国で活躍させるのかに重点を置くようになったと言える。

 以上見てきたように、AEC、少子高齢化、タイランド4.0といった長期的な社会変革の流れのなかで、タイの高等教育は質の転換という大きな課題に取り組んでいる。

【主な参考文献】
Office of the Education Council( OEC), Ministry of Education( 2017). Education in Thailand 2017. Bangkok: OEC.
The Office of the Higher Education Commission( OHEC), Ministry of Education(2017). Annual Report 2016 Office of the Higher Education Commission.Bangkok: OHEC.


鈴木康郎 高知県立大学 地域教育研究センター 准教授
カンピラパーブ・スネート 名古屋大学 大学院国際開発研究科 講師


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