学部廃止の試練を経て地域のニーズに応える学部創設へ/皇學館大学

 皇學館大学(以下、皇學館)には、あの森厳たる伊勢神宮の佇まいのイメージが重なる。神宮のお膝元に設置され、神道を教授してきた皇學館大学の中心にわが国古来の伝統が位置づくことはその通りだ。ただ、それだけで皇學館を語り尽くすこともまた、できない。5年ほど前まで志願者数の低迷に苦しんだ皇學館は今、伝統を継承しつつも、地域からの信頼を得るべく新たな挑戦を続けている。そこに頑な守りの姿勢は見られない。近年どのように改革を進め、今後どこを目指そうとしているのか。清水潔学長にお話をうかがった。

日本社会と歩んだ皇學館の130年

 皇學館は2014年5月現在、3学部6学科を擁し、2,881名の学生が学ぶ中規模大学だ。まずは、ここまでの来歴を振り返っておきたい。その130年余りに及ぶ歩みは明治以降のわが国が歩んできた歴史とまさに軌を一にしている。皇學館は、明治から昭和にかけて激動する日本社会と命運を共にしてきたと言って過言ではない。

 その淵源は、伊勢神宮祭主の久邇宮朝彦親王の令達によって明治15(1882)年、神宮学問所として知られた林崎文庫に「皇學館」が開設されたことに遡る。清水学長は、皇學館開設の背景として、日本全体が近代化や欧化主義に覆われるなか、日本の歴史や文化がなおざりにされていることへの強い危機感があったと説明する。皇學館には、日本古来の国文や国史を継承していくこと、そして神宮をきちんと理解した神職を養成することが期待されたという。

 皇學館はその後、教育研究機関として着実な発展を見せる。明治36(1903)年に内務省管轄の官立専門学校となり、さらに下って昭和15(1940)年には、当時の大学令の下で「神宮皇學館大學」に昇格している。それが終戦後は一転、国家神道を禁じるGHQの神道指令によって廃学に至る。ここで一旦、皇學館の歴史は途絶する。創立64年目に皇學館を見舞った苦難だった。

 皇學館の再興が叶ったのは昭和37(1962)年のことだ。母校復活を願う卒業生達の熱い思いを背景に、国文・国史の2学科で新制大学として再スタートを切った。その再興には、日本の戦後政治を担った二人の首相も大きく貢献した。廃学時に外務大臣を務めていた吉田茂元首相は皇學館復興運動に協力を惜しまず、再興が成就した後、初代総長に就任している。さらに、1967年には二代目総長に岸信介元首相が就いた。岸総長は、日本の伝統的学問を追究してきた皇學館の独自性の維持を目指し、文学部以外の学部設置は必要ないとの判断を示されたと清水学長は語る。

 ただ、時代は変化していく。新たな時代の要請に応じた学部・学科編成の必要性が高まった。1975年には、戦前実績のあった教員養成を行うべく、小学校や幼稚園の教員養成を担う教育学科が文学部に設置された。さらにその2年後には神道学科が設置され、文学部は暫く4学科体制が続くことになる。

 1学部4学科体制が大きく動いたのは1990年代に入ってからだ。単科大学でやっていくことが次第に難しくなっていたと清水学長は言う。当時社会的ニーズの高まっていた福祉人材の育成を目指し、1998年に社会福祉学部が名張学舎に設置された。さらに、2000年には教養教育担当の教員を中心に、文学部にコミュニケーション学科が設置されている。

賀陽宮邦憲王令旨

 このように、皇學館の130年は、時代の波に翻弄されながらも、国文・国史を中軸に据えつつ、次第に社会の課題やニーズに応え得る柔軟さを新たに獲得してきたプロセスとして描くことができる。

 ただ、時代の変化を前に皇學館が依拠する理念にブレはない。明治33(1900)年に神宮祭主賀陽宮邦憲王によって出された「令旨」が建学の精神として今も生き続けている。ここに謳われているように、皇學館教育は現代日本の不足を補うことに加え、社会から要請されていることに積極的に応えていくことを使命としていると学長は述べる。学長はこの「令旨」を入学式で朗読し、趣旨を説明するそうだ。各教員も指導学生制度の懇談会の中で学生に説き、学生手帳の最初にも掲げられている。令旨が示す建学の精神は不変だ。

社会福祉学部の設置と廃止

 近年、皇學館は果敢な挑戦を続けているが、新たな挑戦には少なからず困難が伴うものだ。皇學館における一学部制から複数学部制への転換は必ずしもスムーズに進んだわけではない。社会福祉学部は、立地する名張市はもちろん、三重県や伊賀市からの熱心な誘致を受け、公私協力によって設置された学部だった。しかし最初の数年こそ好調に推移したものの、その後は急坂を転げ落ちるがごとく、打つ手に効果が表れなかったと清水学長はふり返る。

 そもそも名張市は、伊勢市とは山を隔てて文化圏も経済圏も異なり、大阪のベッドタウンとして急速に人口増加を続けていた土地だ。15万人都市を目指す名張市は、大学誘致を市の中核事業に位置づけ、その成果に大きな期待を寄せていた。かたや皇學館も、関西圏からの学生獲得に期待を掛けた。この状況を客観的に見れば、両者の期待は妥当なものだったに違いない。しかし実際にふたを開けてみると、志願者数は伸び悩んだ。関西圏からの志願者が飛躍的に増えることもなかったという。2000年代半ばから後半にかけて全体的な志願者数が低減し続け、それが皇學館の経営を圧迫していったであろうことは想像に難くない。

 社会福祉学部の不調は、皇學館の存続にとって大きな試練だった。しかも、名張に置かれた同学部は「地域の大学」として高い期待が寄せられていただけに、皇學館の経営状態だけで去就を勝手に判断できるものでもなかった。清水学長が言うように、皇學館に「道義的責任」があったのも確かだが、撤退やむなしの状況にあったことも事実。当時の理事長・学長は、まさに「断腸の思い」で名張からの撤退を決断したと清水学長は述べる。

 幸いしたのは、新たな校地を探していた近畿大学工業高等専門学校が、熊野市から名張学舎跡地に移転することが決まったことだ。皇學館の名張撤退と、近大高専の名張移転は、空白期間を置くことなく2011年4月に実現した。このおかげで名張市から高等教育機関が消滅してしまう事態が避けられ、皇學館としても少し肩の荷を下ろすことができたという。キャンパス移転はどんな大学にとっても大事業だが、この局面を乗り越えたことが、現在の皇學館大学へと一皮むけるための試金石になったと見ていいだろう。図表1にあるように、志願者数や志願倍率が社会福祉学部廃止の2009年を境に上昇に転じていることから、逆境を新たな活力に変えた皇學館の姿を読み取ることができる。

学部創設がもたらした志願者増

 こうした志願者増には、この時期に実施された学部創設が奏功した。いずれも、皇學館の特性を活かしつつ創設された学部だ。

 その一つは、社会福祉学部の廃止に伴って創設された「現代日本社会学部」だ。社会福祉学部は18歳の心にアピールできずに学生を集められなかった。だからといって、単純に社会福祉の看板を架け替えるだけで済む話ではない。学部にいる社会福祉系教員を一切解雇せずにどう転換を図るかも切実な課題だったと清水学長はふり返る。

 導かれた答えが現代日本社会学部だった。2010年度には社会福祉学部の募集を停止し、現代日本社会学部を新設、翌年度から学生も教員も全て伊勢学舎に統合した。新しい学部には、現代日本が抱える課題群ごとに政治経済分野、社会福祉分野、地域社会分野、伝統文化分野が設定された。つまり、学部廃止で「社会福祉」の火を消したわけではなく、規模を縮小して継承しつつ社会福祉を現代日本の課題として位置づけ直し、「神道福祉」としても性格づけることにしたのだという。

 全ての学部が伊勢学舎に統合されることで全学一体の学風が醸成されたと清水学長は言う。「文学部で過去の歴史・文化・文学を教育・研究し、現代日本社会学部でそれを活かしていかに現代日本に実現していくのかを考える」体制が形成された。折しも2012年度に創立130周年/再興50周年事業が、翌2013年度には伊勢神宮の式年遷宮が続き、皇學館が注目を浴びたことで大学全体が結集し、外に打って出る構えができたと学長はふり返る。

 そして、近年の志願者増を支えるもう一つの学部が「教育学部」だ。2008年、文学部教育学科を教育学部(教育学科)として独立させた。前述の通り、教員養成は皇學館が歴史的に得意としてきた領域の一つだ。戦前の神宮皇學館時代から国語・漢文、歴史の分野で優れた教員を輩出する機関として定評があった。現在もその実績を受け継ぎ、皇學館出身の教員に対する地域社会の信頼は厚いと学長は説明する。

 事実、教員採用試験の合格率は県内トップクラスの実績を誇る。2014年度には三重県の公立小学校の採用数が93名(新卒・既卒者含む)となり、三重県内の占有率は32%に達し、他を大きく引き離している。教育学部にはスポーツ健康科学コースも置かれ、体育教員の養成も可能だ。さらに、文学部の専門性を活かして国語、社会(地歴・公民)、英語の教員免許も取得可能だ。こうした多様なニーズに応える教員養成システムが高い支持を集めていることが、今の皇學館における志願者増を支える主な要因だ。

変革を支える意思決定と今後の課題

 では、皇學館がこうした変革を進めるための意思決定はどうなっているのだろうか。

 名張学舎の撤退時、理事長・学長のトップダウンによるガバナンスが機能したのは既に見た通りだ。こうした学部の設置・統廃合については基本的にトップダウン式だと清水学長は述べる。さらに、教学の重要事項については、学長を中心に学部長やセンター長からなる「教学運営会議」が機能している。他方、予算措置を決定するのは理事長を中心とする常勤理事会だ(図表)。法人・教学ともに意思決定プロセスは複雑化させず、シンプルなラインで進めていると学長は説明する。

 ただ、全てがトップダウンということはない。教授会レベルでは、国立大学以上に民主的だと言われるくらいに議論を尽くすという。皇學館には学部教授会の開催はない。全学の80数名による全学教授会だ。そこで丁寧に審議を進め、結果を学長に答申し、学長が最終意思決定を行う。教員の専門性に基づく判断が必要なものは全面的に教授会に委ねる、教員の理解がなければうまくいかないというのが清水学長の基本的考え方だ。教員を尊重し信頼関係を築く努力を疎かにしたまま、トップから一方的に物事を進めているわけではない。

図表 皇學館大学の運営組織図(案)

 ただ、皇學館の置かれた環境があまり楽観視できる状況にないことも確かだ。全国区の神道学科・国史学科は別にしても、皇學館が中心とするマーケットは基本的に三重県や東海地方が中心になる。しかし今後、例えば県南勢地域では確実に人口減少が進行する。

 そんな状況を前に、地域から選ばれる大学であり続けることが喫緊の課題だ。一昨年から、創立140周年に向けた「皇學館大学140教育研究ビジョン」を策定したのはそのためだと清水学長は言う。今後は、この中に示された5年間の中期行動計画(平成27-31年度)を着実に実施・モニタリングしていく計画だ。中期行動計画には、特に教育研究に関する具体的施策が列挙され、誰が、いつまでに、何を仕上げるのかが包括的かつ明示的に示されている(中期行動計画は大学HPでダウンロード可能)。

 このうち清水学長が特に強調するのは教育の質的転換・質保証だ。大学教育の原点として「人間教育」に徹することの大切さを強調し、「教育の質向上に最大限の努力を払っていく」と述べる学長の姿勢は明快だ。持続可能な地域を担う人材育成教育プログラム開発事業である「『伊勢志摩定住自立圏共生学』教育プログラムによる地域人材育成」(平成26年度「地(知)の拠点整備事業」選定取組)は、地域再生の核となる大学、地域貢献人材育成に取り組む皇學館の教育の質的転換への取組の一例だ。(coc.kogakkan-u.ac.jp)ほかに新年度以降、シラバス改善、学修成果の測定、教育のPDCAサイクル等々、学生の学びの実質化を図るための取り組みを進めていくことにしている。また、今後2年以内に学部・学科の点検も進めていきたいという。

 清水学長はさらに、国際的な大学連携を通してもっと「開かれた大学」になっていきたいと語る。今後は、皇學館の強みを活かし、世界から神道や日本文化を学ぶ場として認知される取り組みも広げていく予定だ。既に伊勢市と共同で「伊勢と日本スタディプログラム」も始めている。神道の中心地である伊勢から、新たな可能性が模索されていくに違いない。皇學館の挑戦は今緒に就いたばかりだ。さらなる展開に期待したい。


(杉本和弘 東北大学高度教養教育・学生支援機構准教授)


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