SpecialMessage 委縮する社会だからこそ発揮したい 「やっちゃいなよ」の精神 苫野一徳(熊本大学教育学部 准教授)

「まじめで素直でおとなしい」という表現に潜む深刻な課題感とそこから一歩踏み出すことで広がる生徒の可能性について、哲学者・教育学者の立場から苫野一徳准教授にお話しいただきました。

  

声を挙げられないのは、
民主主義における致命的な問題
「まじめ」も「素直」も悪い意味の言葉ではありません。ただ、どのような言葉も文脈に規定されるもの。「うちの生徒は、まじめで素直なんですけどね…」という表現には、「自分で考えることが苦手」とか、「人の言うことを鵜呑みにする」といった批判的含意があるのでしょう。その裏には、「もっと主体的に」とか、「自分で未来を切り拓く気概をもってほしい」といった本音が見え隠れします。

「おとなしい」も、多分に含意のある言葉です。ただそれが、「内向的で、皆と仲良くしているように見えない」という意味で使われているとしたら、私にしてみれば大した問題ではありません。表面上は静かでも、自分なりのやり方で人と心地良い関係性が築けているのであれば、それでいいと考えているからです。

一方、見過ごせないのは、「おとなしい」が、「自分の意思を表明できない」とか、「必要以上に周りの空気を読んで声を挙げられない」といった意味である場合です。こちらは深刻な問題を内在していると思うし、私自身、そういう若者が増えることは民主主義の根幹に関わることとさえ思っています。
なぜなら民主主義とは、各自が自分の意思をもちより、そのうえで皆の利益になるように話し合い、合意を見出していくプロセスであるから。民主主義=多数決ではありません。むしろ、少数意見を切り捨てるような多数決は非民主的とさえ言えます。小中高を通じ、そうした多数決で事を進める経験をたくさんすると、「何を言ったって最後は多数決だろ。意見なんか言うだけ無駄じゃないか」という学習性無力感にさいなまれる可能性さえあるかもしれません。そうしたことも手伝って、意思を表明することを避ける人ばかりになるとどうなるか。民主主義が成り立たないどころか、一部の人間が支配する社会になりかねません。そこまでいかずとも、強者の決めたルールに従うことで割を食っている例など、世の中に無数にありますよね。おかしいことにおかしいと言わないうちに、自由が奪われているのです。

自由に生きるには力が必要です。理不尽な権力に対峙するには、論理や知識をベースに、「こういう理由でおかしいじゃないか」とズバッと射貫く力が必要です。つまり、「まじめで素直でおとなしい」だけで自由に生きられるほど世の中甘くないということ。時として、そうした厳しさを伝えることも教師の役目ではないでしょうか。

まじめで素直でおとなしくてもいい。
しかし自由に生きるには力も必要

一歩踏み出した先の世界を
見せるのも、先を行く者の役割
という私自身は、「意見が言えない」「議論ができない」とか、そもそも「意見自体がない」「やりたいことが見つからない」といった学生相手に、どうすれば火をつけられるか悩み、試行錯誤してきた歴史があります。ここでは多くは語れませんが、例えば、「この教室では何を言ってもよいし、失敗してもよい」といった場づくりに始まり、折に触れ学生同士が相互触発する対話の場を設けたり、本気の大人たちとの出会いを通じて刺激を与えたり、自由な時間をたっぷり設け興味を焦点化させたり、いつ・どこで・誰と・どのように学ぶかの選択肢を学生に委ねたり…。そうしたことを通じて気持ちの火のつけ方がわかってきたし、そうなってからの爆発力に目を見はりました。その点、可塑性の高い中高生の場合、より多くのエネルギーを発散できるのではないでしょうか。

「まじめで素直でおとなしい」こと自体は否定されるべきではありません。「コツコツと言われたことだけをしていたい」という若者もいるでしょう。それが心地良く、大した問題もなく自由に生きられるのならば、それでもいい。ただ、その場合も、前述したように自由に生きるには相応の力がいることは知らせるべきだし、そうした若者も、成長途上にあるという前提に立つ必要があると思います。なぜなら、今の自分のままではたどりつけない世界があることに気づいていないかもしれないから。だから少しだけ先回りして、「この先にはもっと豊かな世界があり、たくさんの出会いがあり、あなたの可能性も広がっているんだよ」と示すことも大切だと思います。私は教育者の基本は「信頼し、任せ、待って、支えること」だと考えていますが、同時に、ちょっとしたお節介者でなければならないとも思っています。少しだけ先を行く者や、何かの専門知をもつ人間には、そうした役回りがあると思うのです。

「いいからこうしなさい」から
「あなたはどうしたいの?」へ
そもそも、「まじめで素直でおとなしい」ことを若者のせいにするのは酷です。そうさせているのは、「決められたことを、決められた通りに」という学びの下、自己選択や自己決定の機会をあまり与えず、チャレンジを後押ししてこなかった大人であるからです。正確に言えば、学制発布以降150年近く、皆で同じことを、同じペースで、出来合いの答えを教授しようとしてきたシステムの問題です。だからこそシステムをどう変えるかが課題であり、授業を探究型にシフトしていくという今の教育改革も、その流れにあると思います。そのうえで専門性を活かした探究支援をするためには、先生方自身が豊富な探究経験をもつ必要があるし、それには教員養成や研修も探究型に変える必要があるというのが私の主張であり、実践です。

これは実感でしかありませんが、欧米の親や先生は「あなたはどう考えるの?」「で、どうしたいの?」と常に問い掛けている印象があります。日頃からそう問われている人と、「いいからこうしなさい」と言われ続けてきた人とでは、主体性に差が生じるのは当たり前。私たちは意識して、「で、あなたはどうしたいの?」と問うことを習慣にするべきではないでしょうか。

そして、したいことがある若者に対しては、先人の言葉にもあるように、「やってみなはれ」とか、「YOU、やっちゃいなよ」と背中を押す。思えば、高度経済成長期は皆がそういうマインドになれたはずです。失敗したところで何とかなる時代でしたから。ところが縮小経済の下では社会全体が萎縮し、子どもたちにまでそうした時代のエートスを吸わせてしまっている。無理からぬこととはいえ、教育の世界だけは、そのような社会の毒素に満たされてはいけないと思うのです。教育委員会や管理職も率先して「先生、やっちゃいなよ」と言う余裕をもち、世間や保護者や子どもたち自身にも、そうした精神が広がっていく。そんな社会にしたいと考えています。

とまの・いっとく
1980年生まれ。早稲田大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。哲学者、教育学者。教育とは何か、それはどうあれば「よい」といいうるかという原理的テーマの探究を軸に、これからの教育のあり方を構想。公教育の本質は「自由の相互承認」の実質化にあるとし、具体的なあり方として「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」を提唱。熊本市教育委員も務める。近著に『「学校」をつくり直す』(河出新書)、『別冊 NHK100分 de名著 読書の学校苫野一徳特別授業「社会契約論」』、『愛』(講談社現代新書)など。

取材・文/堀水潤一 撮影/加来和博