"Special Message 初めはきっと「わかりあえない」。でもそんな“対話”から希望は生まれる  平田オリザ(芸術文化観光専門職大学 学長・劇作家/演出家・青年団主宰)"

初めはきっと「わかりあえない」。
でもそんな〝対話〞から希望は生まれる

劇作家・演出家でありながら教育現場にも精力的に足を運び、今年度、芸術文化観光専門職大学の初代学長に就任した平田オリザ氏。
90年代から訴え続けてきた「対話」の価値について改めて伺いました。

  

人間は一人ひとり違う
価値観も考え方もバラバラ  
劇作家としての活動の傍ら、私は折に触れ「対話」の重要性や難しさについて発信してきました。1990年代後半には、演劇的手法を取り入れたコミュニケーション教育のワークショップを学校現場などで始めています。

今もそういうところがありますが、当時のコミュニケーション教育は、「〇〇さんのことをよく理解しよう」など、ただでさえ同調圧力の強い教室で、必要以上に協調性に寄った相互理解に重点が置かれているようで、私は違和感を抱きました。「何をそんなにわかりあいたいのか」と。そこには無自覚のうちに、わかりあえる可能性のない人や、交わるつもりのない人をあらかじめ排除しようとする論理が隠れている気さえしました。

子が親の思い通りには動かないように、人間は一人ひとり違います。同じような環境の下では差は見えにくいかもしれませんが、今や価値観もライフスタイルも多様化しているうえ、国籍も文化も異なる人々と共存する時代です。要するに、同じ日本に住む人同士でもバラバラ。基本的に、人間はわかりあえないものなのです。  

そうしたなか、心からわかりあえることを前提としたコミュニケーションを考えるのか。それとも、わかりあえない人間同士が、粘り強く、どうにかして共有できる部分を見つけだすことから始め、そこに少しの喜びや新たな発見を見いだそうとするのか。その差は大きいと思っているのです。  

だから私は高校生に、対話やコミュニケーション教育によって、人と人とがわかりあえるバラ色の未来が開けるんだ、などとは言いません。けれど希望を込め、こう伝えるようにしています。「心からわかりあえないんだよ、すぐには」とか、「心からわかりあえないんだよ、初めからは」と。

「察する文化」から抜け出し
多文化共生型の対話のスタイルに  
ここで私なりに言葉の整理をしたいと思います。「対話」を辞書で引くと、文字通り「一対一で話すこと」とか「向かい合って話すこと」と出てくるのですが、どうもピンときません。先人の解釈なども参考に、私なりに定義すると、「対話」(dialogue)とは、異なる価値観や文化的背景をもつ人たちとの価値観のすり合わせ。あるいは、知った人同士でも、何かに直面して価値観が分かれたときに起こるやりとりのことです。  

その点、親しい人同士のおしゃべりを指す「会話」(観や文化的背景をもつ人たちとの価値観のすり合わせ。あるいは、知った人同士でも、何かに直面して価値観が分かれたときに起こるやりとりのことです。  その点、親しい人同士のおしゃべりを指す「会話」(conversation)とは異なるし、字面の似た「対論」(debate)とも違います。AとBという異なる論理があったとして、対論の場合、それらがぶつかった結果、一方が従う必要がありますが、「対話」の場合は両者をすりあわせることでCという新しい結論が生まれることもあります。そう考えると、対話的な精神とは、異なる価値観をもつ人との出会いによって自分の考えが変わることを潔しとする態度。さらには、そこに喜びさえ見いだす態度のことではないでしょうか。  

けれど、日本人はこの「対話」が苦手です。ヨーロッパでは、些細なことで対話が始まり、なかなか終わらないのが常ですが、私を含め、海外に進出したての多くの日本の芸術家は、その時間に耐えられません。「何でわかってくれないんだ」と嘆くか、「どうせ言ってもわからないだろう」と諦めてしまう。中には、相手の意見によって自分の考えが変わることを〝敗北〞と捉えたり、自分に嘘をついている感覚に陥ったりする人がいるかもしれません。本当の自分があるとすれば、それは他者との関わりを通じて形成されていくものなのに。  

ただ、それは致し方のないこと。対立の歴史が長く、異なる民族や宗教をもつ国々が地続きで接しているヨーロッパの場合、必然として対話の知恵を働かせてきました。自分は何者で、どんなことを考えているのかを、きちんと他者に伝えたうえで、何とかして合意形成する必要があるからです。いわば「説明しあう文化」がある。  

対して日本の場合、実際には隠微されたさまざまな問題があるにしても、基本的には等質の価値観や生活習慣をもつ者同士の集団の中で、「察しあう文化」を形成してきました。  

どちらが良くて、どちらが悪いという話ではありません。ただ、世界的には後者は少数派。今の潮流を考えたとき、多文化共生型の社会や対話のスタイルに適応していかなければいけないし、それに備えた教育が必要というのが私の主張です。学校教育が、社会に出る前の準備期間であるならば、イデオロギーではなく、現実に即さなければならないと思います。なのに、分断が顕在化されにくいがために克服するシステムが育たない。いきなり変化がやってきたら大混乱が生じ、社会がもたなくなると思うのです。

狭い人間関係の中で獲得の機会を失う
コミュニケーションスキル  
混乱は、既に身近なところでも起きています。例えば、私が長く関わらせていただいている、ある島の話です。その島には、幼稚園から高校まで一校ずつしかありません。クラス替えはほとんどなく、顔見知りばかりの環境で子どもたちは育ちます。にもかかわらず、先駆的にコミュニケーション教育を取り入れようと尽力された島の町長や教育長が、その理由をこう話してくれました。「自分たちは、島を出るまで〝他人〞と接したことがなかったから、島外でのコミュニケーションで苦労した。今、かつてと比較にならないくらい多くの若者が一度は島を出る。その子たちに同じ苦労はさせられない」。察しあう文化の中で育てられながら、突然、異文化理解などの高度な能力が要求されることに対する大変なご苦労があったのです。  

問題を抱えているのは都市部も同じ。本来、放課後の公園における年齢を超えた交流や、兄弟姉妹や祖父母、地域の人々との関係の中で、対話のスキルは磨かれるのに、そうした機会は極端に減っています。その一方で、SNSなどを通して帰宅後も学校内の人間関係に引きずられ、四六時中、同じキャラを演じなくてはいけない。私たちの時代にはなかった、今の生徒の置かれたつらい状況です。

「伝えたい」という気持ちは、
「伝わらない」という経験からしか生じない

フィクションの力を借りつつ
シンパシーからエンパシーへ
社会的な機能が働いていないのに、それを学校に負担させることの問題点はともかく、子どもたちには社会で苦労しないだけの最低限のコミュニケーションスキルが必要です。けれど、当の本人に「伝えたい」とか「相手のことを知りたい」という気持ちがなければ、そうしたスキルが定着するわけがありません。では、「伝えたい」という気持ちはどこから来るのでしょうか。それは「伝わらない」という経験からしか生じないと思うのです。  

ならば、体験をさせるのが近道。さまざまな社会施設を訪れたり、ボランティアやインターンシップに参加したり、外国人と触れ合ったりなど、自分とは異なる他者との接触の機会を増やすことです。けれど、そのような豊かな体験活動は、予算や時間、セキュリティの問題が壁となるでしょう。個々の学校が置かれた状況によって体験格差も広がっています。

そこにこそ、演劇あるいは演劇的手法の役割があります。ある設定に基づき、自分たちで台詞を考えながら、他者を演じることで、異なる価値観との接触を疑似体験するのです。  

先生方にとって演劇は唐突だというならば、教科の授業にフィクションの力を活かしてはどうでしょう。例えば、生徒が歴史の登場人物になりきって考えるような授業が広まっていますが、その際、例えば源義経と頼朝の役割を交換させるとか、第三者を加えることで会話がどう発展するか考えさせてみるのもいいのでは。

一般的なロールプレイも有効です。小・中学校ではよく、いじめる側といじめられる側を交互に演じる試みが行われています。ただし、「いじめられた子の気持ちになってごらん」と諭したところで効果は疑問。相手の気持ちがわかる子であれば、最初からいじめなどしていません。けれど、いじめる側にも、人から何かをされて嫌だった経験はあるわけで、そこから類推させ、「今の気持ちは、それと似たものなんだよ」と結びつけることが、ロールプレイの意義だと思います。  

これと同じことを医学部の学生にはこう伝えてきました。患者さんの気持ちに同一化することは難しい。けれど、患者さんの痛みや苦しみを何らかの形で共有することはできるはず。私たちの中にも、それに近い痛みや苦しみがきっとあるはずだから、と。  

こうした取組は教育学では「シンパシーからエンパシーへ」と呼ばれています。日本語訳が難しいのですが、相手に同一化したり、同情したりする必要はないけれど、なぜそう考え、行動するのか理解を示し、共有・共感の余地を残すという態度のことといえるでしょうか。冒頭に述べた、「心からわかりあえないこと」を前提に、少しでもわかりあえる部分を探っていくという営みも、こうした考えをベースにしています。

「みんなちがって、大変」だけど
そこから生まれる価値がある
もちろん、そうした営みは一筋縄ではいきません。異なる価値観や文化的背景をもった人々との対話や共生は、大変だし面倒くさい。こうした認識をもつことも大事だと思っています。そこが欠けると、「多文化共生は素晴らしい」という単なる理想論や人権論で終わりかねません。講演などで多文化共生について話すと、よく「金子みすゞですね。『みんなちがって、みんないい』ですね」と言われますが、そうではない。「みんなちがって、大変だ」と言いたいのです。  

だからといって大変さから目を背けるわけにはいかない。仮に、気の合う友人や、自分のことを愛してくれる人とだけで生きていけるのならば、それも幸せなのでしょう。けれど、人間の社会はそうはできていません。むしろ、これからは多様性が力。それぞれの価値観のすり合わせによって新しい価値を創造していかなくてはなりません。  

他者との対話を避けるということは合意形成の機会を自ら放棄すること。逆に言えば、対話の術を身につけるということは、自分たちが暮らす地域社会の未来について、自分たち自身で考え、判断し、決定することができるということです。  

私がしてきたことは漢方薬のようなもので、もどかしさも感じますが、そうしたことを各地で具現化する若者が増えつつあることに、手応えとともに、少しの喜びを感じています。


芸術文化観光専門職大学 学長
劇作家・演出家・青年団主宰
平田オリザ
ひらた・おりざ●1962年生まれ。国際基督教大学教養学部卒業。青年団主宰。第39回岸田國士戯曲賞ほか受賞多数。演劇活動のほか多方面で教育活動を展開。ワークショップの方法論に基づく教材が小・中学校の国語教科書に採用される。兵庫県立・芸術文化観光専門職大学(2021年4月開学)初代学長。『わかりあえないことから』(講談社現代新書)など著書多数。

取材・文/堀水潤一 撮影/平山 諭