教えて!「大学の新設のしくみ」

 田中真紀子文部科学相が、大学設置・学校法人審議会(設置審)の答申した公私立3大学の設置認可にいったんストップをかけて、大きな騒動となりました。「大学の数が多すぎる」というのが真紀子大臣の問題意識だったようですが、大学の新設手続きや認可の方針はどうなっているのでしょうか。

 真紀子大臣は大学が増えすぎた理由を「大学同士で審査しているから甘くなるんだ」と考えていたようですが、そもそも設置審は文部科学省の決めた大学設置基準や審査基準に従って審査をしています。そして基準自体が現在、大学の新規参入をしやすいよう弾力化されているのです。

 始まりは、20年も前にさかのぼります。時はバブル経済の名残が続き、日米貿易摩擦への対応のため規制緩和を政府全体で進めていたころ。その流れを受けて1991年、当時の文部省は大学設置基準の大綱化に踏み切ります。それまでは審議会にかける前の事前相談段階から文部官僚が細かいチェックを延々と行い、手心を加えてもらおうと贈収賄事件さえたびたび起こっていたぐらいでした。それが、大学の自主性・自律性を尊重する方向にかじを切ったのでした。

 決定的だったのは、省庁再編後の2000年代です。小泉純一郎内閣が国民の圧倒的支持を得て、規制緩和・自由競争路線を強力に推し進めていました。構造改革論者からは、文科省が大学の設置認可を行っていること自体が「参入障壁だ」と痛烈に批判されていました。そうして設置認可の方針が「事前規制から事後チェックへ」と転換されます。規制を大幅に緩和して新規参入をしやすくする代わりに、新設後の自助努力で改善を求め、それで潰れる大学が出てきたとしても自然淘汰(とうた)に任せることにしたのです。

 大学の数が増えたもう一つの理由は、「高等教育計画」が2005年度以降、策定されなくなったことにあります。それまでは国全体として大学の入学定員の規模を中長期計画で決め、それに基づいて設置認可を調整することが行われてきました。しかし、これがまさに「護送船団方式だ」と批判されたわけです。規制緩和の下で最後に策定された高等教育計画(2000~04年度)は、2009年度に「大学全入時代」が来ると予測した上での計画でした。そうした中で、05年度以降はあえて完全な市場原理に任せることにしたのです。

 実際、大学の数は73年度に400校を超えてから90年度に500校を超えるのに17年かかっていましたが、600校を超えたのは8年後の98年度、700校を超えたのは5年後の03年度と、加速度的に増えていきました。最近は短大や専門学校からの転換が一段落したのか申請自体が減っていますが、実質的な全入時代に突入し、多くの私立大学が定員割れを起こす中でも大学の数は年々増え続け、12年度は783校と800校に迫っています。この20年でちょうど1.5倍になった計算です。

 一方で文科省は「大学の数は多すぎない」「大学進学率は、まだまだ低すぎる」という立場を繰り返し表明してきました。この10年、韓国やオーストラリアに比べて高等教育の拡大に出遅れてきた、という指摘もあります。経済協力開発機構(OECD)も、経済発展のためには高等教育への投資が有効だと主張しています。肝心なのは、国家戦略として大卒人材に何を求めるのか、その上で高等教育の量的規模をどうするのか、という大方針を決めることでしょう。もっと言えば、このまま市場原理に任せたままでいいのか、ということです。少なくとも大学人の審査の甘さを問題にするのは的外れであり、ましてや現行基準に則った3大学の新設を認めないというのは、政治主導が過ぎたようです。

【profile】
渡辺敦司(わたなべ・あつし)●1964年北海道生まれ。1990年横浜国立大学教育学部教育学科卒業。同年日本教育新聞社入社、編集局記者として文部省、進路指導・高校教育改革など担当。98年よりフリーの教育ジャーナリスト。教育専門誌を中心に、教育行政から実践まで幅広く取材・執筆。
教育ジャーナリスト渡辺敦司の一人社説 http://ejwatanabe.cocolog-nifty.com/blog/


(初出日:2012.11.20) ※肩書等はすべて初出時のもの