【Interview】自分の頭で「問い、考える」習慣を取り戻す


本稿では探究学習の今とこれからについて有識者・実践者にインタビューし、質の高い良い探究とは何か、どのように実現できるのか、推進校の特徴は何か等を探る。

POINT
  • 「正解を覚えて当てはめる」ではなく、自分の頭で考えて論を形成し、他者と議論・協働して自分なりの解を見出すことが本来の学びの姿
  • 社会における手触りのある経験によって考える力を習得するのが探究学習の醍醐味
  • 探究学習のフィールドでの体験値が大人を上回ったとき、初めて対等な「対話」が成立し、生徒は小さな専門家として走り出す
  • 育成したい資質・能力を軸にした教育目標が、探究だけでなく全ての教科や生活、放課後にまで「風」としてデザインされているかを見直す必要がある

西大和学園中学校・高等学校

梨子田 喬 教諭

東北大学文学部人文社会学科卒業、同大学大学院文学研究科博士課程修了、修士(文学)。岩手県立大船渡高等学校教諭、岩手県立盛岡第一高等学校教諭、岩手県教育委員会等を経て現職。共編著に『探究が進む学校のつくり方』(明治書院)がある。



―今の高校教育において、これほど探究が必要とされるのは何故だとお考えですか。

 探究が必要なのは、端的に言えば、「子ども達が自分の頭で考える習慣」を取り戻すためだと私は考えています。

 子ども達はまじめに勉強しているように見えますが、実際は「正解を覚えてアウトプットするだけの勉強」に陥っている場合が少なくありません。例えば、生徒に「この数式のグラフはどんな形?」と問いかけたりします。その生徒にとってちょっと難しそうなグラフであれば、「X²+Y²=1」でも何でもいいんです。「分からない」という答えに対して、「分からないときはどうする?」と尋ねます。すると「先生に聞きます」「友達に聞きます」「教科書を見ます」がとても多いことに驚かされます。自分で0や1などの数値を代入すればすぐにグラフの形は見えてきます。しかし、それもせず、教科書を見たり先生や答えを知っていそうな友達に聞いたりしようとする、こういう生徒たちの学習姿勢を変えないといけません。現代の勉強は、「自分の頭を使って考える」という勉強の本質的な知的アプローチが置いていかれているように感じます。

 歴史の授業では、アレクサンドロス大王が東方遠征をしたと教えます。私は「じゃあ、もし西に遠征していたら歴史はどうなっていたと思う?」という全く正解のない問いを投げかけます。すると、ローマ帝国って誕生したのかなあ等、生徒は問いに引き込まれ活発に議論をします。正解がある問いは正解を知っている人が偉いわけですが、正解がない問いだと、自分らしい納得解にたどり着くまでのプロセスに全員で取り組むようになるんですね。そこでああでもないこうでもないと盛り上がる生徒達を見ていると、子どもは、本当は「自分の頭で考える」のが好きなんだなぁと思います。こういう問いかけのある授業と知識習得のための授業を、別々に考えず組み合わせて設計していくのが教師の腕の見せ所です。

―OECDが提唱するエージェンシーにも似ていますが、自分の頭で考えてたどり着くプロセスが教育には必要だということなのですね。

 はい。そのため、国は学習指導要領を「資質・能力」にフォーカスした設計にしていると私は解釈しています。これまでの「教え込み」の教育から、「知識の関連づけを自ら行い、論理を構築する力をつける授業」へと変革する。それを歴史や数学といった教科授業で行うのと同様に、社会全体をフィールドとして行うのが「総合的な探究の時間」の本質です。探究活動の取り組みのゴールは、社会課題を華やかに解決する手法を学んで、理解して、上手に発表することではなく、「未知の問いに対して自らの頭で考え、追究する学びに対する姿勢の変容」そのものなのです。

 よく探究と教科をどう結びつけるかといった議論がありますが、教育目標である育成すべき資質・能力を前にすれば、探究も教科も根っこは同じです。どちらでも、きちんと生徒の考える力を育成できているのか。教科は教科・学問がフィールド、探究は社会がフィールドだという違いだけで、本質は同じであると考えることが大切です。

 教科でも探究でも育成する資質・能力に変わりはないものの、社会というリアルの中で学ぶのが探究の価値であり醍醐味です。机上の理論だけではなく、実際現場はどうなっているのか、社会を動かすにはどうすればよいのか。こうした問いを考えながら、何かを関連づけたり、概念を転移したり、論理を操作し主張を強化したり、こうした資質・能力のトレーニングを教科学習でも展開していけばよいわけです。

―では、生徒にとって本当に価値のある「良い探究」とは、あるいは探究がうまくいっている生徒の状態とは、具体的にどのような姿を指すのでしょうか。

 良い探究ができている状態とは、生徒が「自分で考えて、決めて、行動するプロセス」に入り、自立して走り出している状態です。そしてもう一つ、指導する教員や大人と「対等に対話ができるようになること」も重要な指標です。

 よく教育現場では「伴走」という言葉が使われますが、私は寄り添いすぎるニュアンスが少々強いように思います。むしろ、大人はただの壁打ち相手でいい。生徒がある時点で大人を「超えた」と思える瞬間が訪れるのが理想です。その「超える」原動力になるのが、インターネットや教科書には載っていない「リアルな現場の体験」です。

 私が以前、総合型選抜の指導をしていた際、生徒が書く志望理由はいくら机の上で推敲させても深まりませんでした。本気で考えているつもりでも、考えが深まるトリガーがないからです。そこで志望動機で「地域の高齢化について学びたい」と書いていた生徒に、「こうしたテーマを語るなら、実際に地域の高齢者の方々と話してきなさい」と現場へ送り出しました。生の現場を見て、手触りのある経験をした生徒は、私達が知らないリアルを知り、自信を持って自らの言葉で語り出します。大人を体験値で上回ったとき、初めて対等な「対話」が成立し、生徒は小さな専門家として走り出します。

 大船渡高校に勤務していた頃、方言について学びたいと考えた生徒がいました。彼らはその道の専門家である大学教授に答えを聞きに行くのではなく、地元の老人ホームのお茶会に出向きました。そして、高齢者の方々が日常的に使う「かやかやする」という方言が、体のどの部位がどうなる状態を指すのかを検証するため、人の形をした紙を持参して「『かやかやする』は体のどの部位を表現しますか?」と高齢者の方々に丸をつけてもらう調査を行ったのです。

 探究活動で専門家に答えを教わりに行っているようでは、思考せず答えをねだりに行っているわけで、探究の本質とは言えません。どうすれば自分たちの仮説が正しいと検証できるのか、自分の頭で知恵を絞って考え、現場に出て検証する。先ほどの「かやかやする」の方言調査の例で言えば、生徒と交流した高齢者も喜ばれますし、生徒は自分の問いに対するヒントや観点を得ることもできました。幼児が砂場で遊びながら砂と水の性質を知るように、赤ちゃんがボタンを口に入れて「これは食べられない」と学ぶように、社会で歩き、観察し、対話したり失敗したりしながら社会のリアルなダイナミズムを自分の頭で考えて学ぶことこそが、良い探究の姿ではないでしょうか。

―現在、多くの高校が探究の推進に苦心しています。うまくいく学校と、そうでない学校の違いはどこにあるのでしょうか。

 うまくいくために必要なのは、単発のイベントや特定の教材ではなく、学校のカリキュラム全体に「風」を作ることです。うまくいかない学校は「手段の目的化」に陥っていることが多いように思います。

 例えば、巷にはきらびやかで見栄えのする探究教材がたくさんあふれています。しかし、見栄えが良いテーマ教材は、生徒に作業の指示を出しているだけのケースが少なくありません。「担任の先生が配られたプリントの指示を読み上げ、生徒は指示通りに模造紙に書き写すだけ」という授業は、生徒にとって非常につまらないものです。それは単なる「指示と作業」のプロセスであり、探究に必要な「問いと思考」のプロセスになっていません。

 生徒が「探究しようとしない」「自分で考えない」と悩む学校は、まず日々の1時間目から6時間目までの教科学習が、育成したい資質・能力を育むものになっているのかを振り返ってみてはどうでしょう。「生徒が自分の頭で考える力を身につける」が目標の場合、普段の授業が「誰かが考えた正解をなぞって飲み込むだけ」の空間になっているのに、総合の時間の50分間だけ「さあ、自由に考えなさい」と言われても、子ども達が動けるはずがありません。時間割の枠を超えて、日々の教科学習、学校行事、放課後のあらゆる場面で「あなたはどう考える?」と問い続けられる「風」が吹いて初めて、子ども達の行動変容(文化)へとつながっていきます。

 例えば私の学年では、放課後の10分間を使って正解のない哲学論題を提示し、「7分間で自分の考えをまとめ、3分間で隣の生徒と議論する」という取り組みを日常的に行っています。また、放課後に面白い探究の芽を見つけた生徒がいれば、「次の総合の時間まで待つ」なんてことはせず、その場で教室にいるほかの生徒を集めて「この子が今面白い考えをまとめたから、5分だけ聞いてやって!」と即席の発表の場を作ったこともあります。探究を文化にする仕掛けを日常空間に散りばめることで、苦しいはずの「考えるプロセス」が知的な快感へと変わっていくのです。

 この「風」を起こすアプローチに、生徒の基礎学力は一切関係ありません。学力水準がそれほど高くない学校であっても、学校全体の教員が「この資質を育てるぞ」というベクトルを統一し、カリキュラム全体でしつこく風を吹かせ続ければ、生徒は劇的に伸びていきます。

 だから、学校の先生方が、今一度「探究の本来の目的」に立ち返り、自らの生身の言葉で切れ味のある問いを投げかけ、生徒と共に悩み、対話する。そのライブ感のある空間と、日常的な「風」のデザインこそが、高校が探究を真に推進するために不可欠な要素だと私は考えます。


取材・文/研究員 鹿島 梓(2026/9/10)