ダイナミック・アジアⅡ(1)アジア高等教育圏のダイナミクス 杉村美紀

 近年、「アジア高等教育圏」という表現が登場した。ヨーロッパに「エラスムス計画」という多国間の学生移動プログラムが登場し、欧州高等教育圏が形成されるようになった80年代、アジアはまだ各国が国家の枠組みの中で人材育成を考える時代にあった。当時の留学の主流は、国費留学に代表されるように各国政府の自国人材の育成政策として実施され、私費留学も自国での高等教育が期待できないという消極的な理由によるものが中心であった。それが今日では、アジアからの留学生はOECD諸国の大学院レベルでは53%を占めるまでになり、引き続き欧米英語圏への留学は中心ではあるものの、今では非英語圏や、アジア域内の留学も活発化している。かつて送り出し側であったアジアは、今や一部の国が受け入れ側にもなり、国際留学生移動のハブが誕生している。「アジア高等教育圏」の誕生である。

 この背景には、特に1990年代以降のアジアにおいて、一定の経済成長のもとに人々の教育への需要が高まり、私費留学を可能にする中間層が増加したことが挙げられる。同時に、留学の需要に対応する多様なプログラムが、教育機関はもとより、各国政府・地域機構によって作られるようになった。折しも国際化やグローバル化が教育にも影響を与え、教育プログラムも従来の交換プログラムに留まらず、ツイニングプログラムや二重学位プログラム、サンドイッチプログラムや海外分校におけるプログラム等、国境を超えるトランスナショナルプログラムが増加した。アジア各国がそれぞれ国際教育交流の拠点化を目指し、人材獲得競争も相まって戦略的に留学生政策を展開するようになり、教育機関・プログラム・学生・教職員のモビリティが活発化したのもこの動きと重なる(※1)。

図1 アジアに拡がる高等教育ネットワーク

「アジア高等教育圏」の多層的枠組み

 こうした国際教育の動きがさらに「アジア高等教育圏」へと発展しつつあるのは、今やアジアが留学先地域として一定の位置付けを得るようになったこととともに、EUと同様に各国政府が協力し、あるいは国別の枠組みを超えた国際機関が、地域としての教育ネットワークを構築し、それが学生や教職員のモビリティを促進するようになったからである。そこには、教育機関─国─地域内─地域間の多層的なプログラム構造が見られる。各教育機関が行う交換留学や短期プログラム等の教育機関の枠組みに加え、国単位で作られたネットワークには日本、中国、韓国による「キャンパス・アジア」がある。また地域機構が組織する地域内プログラムには、アセアンが主導する「アセアン大学連合(AUN)」、東南アジア教育大臣機構・高等教育開発センター(SEAMEO-RIHED)による「東南アジア国際学生モビリティプログラム(AIMS)」、南アジア諸国連合(SAARC)による「南アジア大学(SAU)」がある。さらにこうした地域機構が、アジア以外の地域と結んで形成されているものとして、アジア太平洋地域を結ぶ「アジア太平洋大学交流機構(UMAP)」、相互尊重と平等の精神に基づき、アジア・欧州両地域の協力関係を強化することを目的とした「アジア欧州会合(ASEM)」を母体とするアジア欧州財団(ASEF)による人的交流、さらに、アセアンの高等教育をEUが支援することを目的として、アセアン経済共同体(AEC)とEUの間で連携が始まった「EUシェア」もある。一方、プログラムとは別に、教育の質保証を担保する枠組みとして各国が設置している質保証機関のほか、地域機構が設けている質保証の枠組みとして、アジア太平洋質保証機構(APQN)、アセアン質保証機構(AQAN)があり、さらに地域間を結ぶより大きな傘として国際質保証機関ネットワーク(INQAAHE)がある。

 このようにアジア高等教育圏ではプログラムが多層的に展開されており、さらにそれは様々な変容を見せつつある。例えばAIMSはアセアン域内でのメンバー拡大を図るとともに、日中韓三か国との連携を目指している。AIMSは発足当初、マレーシア・インドネシア・タイの三カ国による国家間協力により、各国の頭文字を取ってMITプログラムとして組織されたが、SEAMEO-RIHEDが所管するようになってからは、フィリピン・ブルネイ・ベトナムに加え、日本及び韓国へとパートナーを拡大し、近未来的にはASEAN+3のスキームを企図していると言われる。他方、ベトナム・ラオス・カンボジア・ミャンマーから成るCLMV諸国は、サブ・リージョナルな連携を組織している。以上のように、アジア高等教育圏は、入れ子状になった多層的な組織から成っている。

協働を促す枠組み作りへの挑戦

 「アジア高等教育圏」の誕生は、アジア各国にも少なからず影響を与えている。第1に、従来の国別の政策枠組みに加え、教育圏を意識した政策展開がなされるようになっていることである。各国の高等教育政策には基本的に国家統合と経済発展のための人材育成という目的が根底にあり、国際化が進むなかで、アジアのみならず世界からいかに優秀な人材を獲得するかという競争原理が働いている。「高等教育の国際化」のもとにトランスナショナル教育の積極的な導入を図り、高等教育のランキングを掲げるのも、学生移動の動向をにらみながら魅力的な高等教育をアピールするためである。こうした競争に対して、アジア高等教育圏では次世代の人材育成を協働で行うことが重視される。いずれの教育枠組みにおいても、地域に共通の問題を共に考え、解決を目指す地域人材をいかに育てるかが目的に掲げられている。そこには、各国の「高等教育の国際化」を図るのとは別に、協働で教育に当たり、研究活動を活発化させようとする「国際高等教育」の動きが認められる。

 第2に高等教育圏という、協働して運営されるトランスナショナルプログラムの登場に伴い、学生のモビリティを高め、プログラムや教育機関相互の互換性を高めるための様々なスキームや、質保証のシステムが登場するようになった。質保証のスキームとしてはOECD-UNESCOが定めた「国境を越えて提供される高等教育の質保証に関するガイドライン」があり、ヨーロッパではEUが展開するヨーロッパ単位互換制度(European Credit Transfer System: ECTS)がエラスムス計画の学生モビリティを飛躍的に高めてきた。これに対してアジアでは、UMAPが定めるUniversity Mobility in Asia and the Pacific( UCTS)、アセアンが定めた単位互換制度(ASEAN Credit Transfer System: ACTS)がそれぞれ考案され運用されるようになった。このため、高等教育圏としての統一を図るという点では複数のスキームが並存しており、運用面では互換性の点で複雑な構造になっている。こうした状況に対して、近年では新たに地域別のスキームを超えたアジア学術単位(Asian Academic Credits: AACs)が提案され、欧州や北米、南米の地域単位互換制度とも比較されている。さらにASEAN+3では、学生交流プログラムに関するガイドライン(Guidelines on Transcripts for Exchange Students)という新たな共通枠組みが提案され、単位互換のみならず、学生モビリティを促進するための交換プログラム制度構築の共通チェック項目が整理されつつある。

 第3に域内の調整が進む一方で、域外との連携も同時並行的に進みつつある。2015年から協議が開始された「EUシェア」は、ヨーロッパの質保証機構(ENQA)とヨーロッパ大学連合(EUA)が、アセアン質保証機構(AQAN)と協力して新たなアセアン・EU地域間単位互換システム(ASEAN-EU Credit Transfer Systems :AECTS)を立ち上げ、奨学金を付与して学生モビリティを高めようとしている。


表 高等教育圏の学生流動を促す単位互換制度の検討


国際公共財としての「国際高等教育」

 以上述べたように、アジア高等教育圏の登場は、人材獲得競争だけに留まるのではなく、むしろ国際教育を協働という観点から実践するものとして意義づけることができる。それは単に地理的拡がりだけではなく、高等教育の新たな機能として、従来の国民国家を軸とした高等教育の国際化とは異なる次元での役割が期待される国際公共圏であり、そこで育てられる人材や蓄積される研究成果は国際公共財といえる。単一の国だけでは解決できない国境を超える課題が山積しているアジアにあって、それぞれのメンバー国は小規模ながらも、複数の国が協働して国際問題の解決に当たるメリットを斟酌し、政治・経済・社会問題を議論しようとする対話プラットフォームの構築は、地域発展の重要な原動力となる。

 ただし、そこでのリーダーシップの取り方は一様ではない。例えばアセアンが主導する「アセアン大学連合(AUN、前出)」や「東南アジア国際学生モビリティプログラム(AIMS、前出)」では、それぞれのメンバー大学が相互に学生や研究者を送り合うシステムをとっており、それを事務局が管轄している。それに対して、南アジア諸国連合が主導する「南アジア大学(SAU)(前出)」は、インドが主導権をとり、メンバーの7カ国からの学生をニューデリー郊外の一つのキャンパスに集める形で運営されている大学である。前者が言わばメンバー大学が事務局の下に対等に学生を送り合う「循環型」を取っているのに対し、後者はインドを中心軸とした「中心―周辺型」と言えるモデルである。この2つの違いは、プログラムの構成にもよく表れている。即ち前者のほうは、「アセアン研究」といった共通のプログラムを置きながらも、メンバー大学がそれぞれの特長を活かした得意分野を提供し合い、相互のプログラムを補いながら運営する仕組みになっている。学生はそれぞれの志向に合わせてプログラムや大学を選択する。それに対して、「南アジア大学」は、一つのキャンパスに8カ国の学生を集めてプログラムを実施することで、学生は同一の内容を共に学ぶ機会を得る。8カ国相互の間に、インドやパキスタンの例に見るように複雑な政治や経済、外交関係があることは周知の通りであるが、同大学では、敢えてそうした状況を超えて国際関係論や法学のプログラムが盛り込まれている。大事な点は、いずれのモデルにおいても、単一の国がそれぞれの枠組みの中だけで高等教育を実施していたのでは実現できない協働の学びを実践しているということであろう。それは言わば、グローバル化が進むなかで相互信頼と相互協力が求められる今日、次世代を担う人材育成という役割を担う高等教育に必要不可欠な新たな国際協働教育のスキームと言える。

高等教育圏の課題と責務

 国際公共財を生み出す高等教育圏としての今後の展開を考える場合、アジアにおける課題のひとつは、多様な各国社会とその国別政策との相克である。ヨーロッパと比較した場合、言語や宗教といった文化全般においてアジアは非常に多様性に富み、共通の基盤とする文化を定めにくい。また各国はそれぞれの国家統合の課題のもとに、特に初等・中等教育においては、引き続き国民教育を基軸とした政策を堅持している。日中韓三カ国政府が、一方で教科書問題や領土問題などの政治的課題を引きずりながら、三カ国間の学生モビリティプログラムである「キャンパス・アジア」を運営しているのは、国家間の政策の差異に高等教育圏がどのように対応するかということの典型である。また、アセアンが地域政策の方向性として、地域統合という用語を表面上は用いながらも、同時に「多様性の尊重」を掲げ「調和化(harmonization)」を重視するのもそのためである。そこでは常に、各国政府と高等教育圏全体の政策動向を調整する姿勢が見られ、単一の地域コミュニティを創るというよりは、モザイク状に相互のバランスをとった「緩やかな共同体」が模索されている。

図2 高等教育圏の形成と高等教育の重層的な役割

 第2に、南アジア地域や東南アジアが相互に牽制し合う地域主義の動き、あるいは東南アジアがASEAN+3として展開しようとしている地域拡大の動きがある。こうしたアジア域内の相互関係に加え、2015年から関係構築が始まったEUシェアのように地域間を考慮した動きなど、地域化がもたらす新たなパワーバランスの問題がある。こうした動きのなかで、アジア高等教育圏の方向性を決める鍵となって今後ますます重要になってくるのはASEANの動向であろう。ASEAN+3、ASEAN+8、さらにEUシェアと戦略を展開しているアセアンの動きは、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)と並行して議論されてきた東アジア地域包括的経済連携(RCEP)の動きと重なる。折しも、アメリカのトランプ政権によるTPP離脱という状況のなかでRCEPの動向に注目が集まっているが、国際高等教育の展開においても、国際協調のもとでの人的交流の重要性をどのようなかたちで実現するかが焦点となろう。そこではアセアンが主張するように人的交流を「人と人との連結性(people to people connectivity)」と捉える一方、昨今の移民問題に象徴されるように人の国際移動が社会の文化変容や文化摩擦を引き起こすことも考慮される必要がある。

 第3に、今日、高等教育全体に求められるようになっているアウトカム、アウトプットを高等教育圏としてどのように見定めていくのかという問題がある。高等教育の国際化とそれに伴う質保証の動きが活発化し、今日ではネットワークの拡充や量的拡大だけを是とするのではなく、そのプログラムを通じてどのような人材を育てるか、そのためにはどのような内容を、どのような教え方によって取り上げるのがよいのか、さらにはプログラムの意義をどのように把握するのかという教育評価が問題になっている。このことは、国境を超えた協働を特徴とする高等教育圏においては、地域全体で求められる人材像や社会システムを視野に入れた目標設定が求められることを意味し、個々のメンバー国が定める目標との調整も課題となる。

 顧みればこうした国民国家の枠組みを超えた高等教育圏の枠組みは、共に学び合う人々のモビリティを高め、相互理解と信頼関係を醸成することにより、社会の恒久平和を目指そうとしている点で、17世紀に提唱された国際主義を源流とする国際教育の理念に共通するものがある。新自由主義のもとで効率性や合理性が重視され、自国中心主義がにわかに台頭するようになっている今日にあって、高等教育圏が紡ぐ協働の枠組みは、知の創造と次世代の人材育成を担う学術的な教育研究活動の真髄としてその重要性が際立つ。それは人間の尊厳を守るため、国家間や民族間、文化間の偏狭な対立を超えてアカデミアが担う社会的責務でもある。

  • アジアの高等教育の国際化に関する1990年代から200年代半ばにいたる動向については、本連載の前に2009年~ 2011年に本誌にて取り上げた連載企画『ダイナミック・アジア』に詳しい。


杉村美紀(上智大学 グローバル化推進担当副学長 総合人間科学部教育学科教授)

【印刷用記事】
ダイナミック・アジアⅡ[1] アジア高等教育圏のダイナミクス 杉村美紀