ハーバード大学物理学の反転授業

 本誌185号「主体的学びを促す反転授業」(船守美穂)では、ハーバード大学エリック・マズール教授の反転授業の実践について触れた。ここではその方法を詳説する。

 ハーバード大学エリック・マズール教授は、高等教育段階における反転授業の強力な推進者である。1990年からハーバード大学の物理学入門の科目で反転授業を実践している。学習における知識伝授の側面は自宅における教科書予習に委ね、授業中は、自身で考案した「ピア・インストラクション(PI)」という方法で能動的な学習を進める。さらに、「ジャストインタイム・ティーチング(JiTT)」という手法を用い、自宅学習で学生が疑問に感じた点や興味深く感じた点を中心に授業展開することで、学生が最も必要と感じている点に応える教育を行っている。

 マズール教授のこの方法は現在では理論化され、『Peer Instruction』という本となっている。また、この手法は現在、物理学以外の分野、そして全米、世界に広がっている。

■物理の概念をどう教えるか? (苦悩からの光明)

 マズール教授も教壇に立つようになった当初は、講義形式で授業を進めていた。それが自分が物理学を学んだ方法であり、最も自然であった。しかしあるとき、学生が物理学の公式は十分に理解し、演習問題もそれら公式を駆使して巧みに解くものの、例えば「重いトラックと軽自動車が衝突したときに大きな力を及ぼすのはどちらか?」という実世界の質問に対しては正しい答えに至らないと気がついた(*)。この問いかけをしたとき、一部の学生からは、「先生が説明した公式に基づいて答えれば良いでしょうか?それとも、ふだん生活において正しいと感じている答えをすれば良いでしょうか?」という質問すらあったのである。

 それ以来、物理の公式ではなく、物理の概念の深い理解を伝えたいと思った。一方、概念を伝えるうまい方法はなかなか見つからなかった。

 あるとき、ある物理の概念を複数回説明してもクラスの理解が得られず困り果て、ふと思いつきで隣の学生と相談するように求めた。すると数分で皆が理解し、先に進むことができた。それ以来、マズール教授は講義を教室外に追放し、「ピア・インストラクション(PI)」という方法で授業を行うようになった。

■学生全員にチャンスを! ピア・インストラクション(PI)

 教室では、問いかけを中心に授業を進める。まず学生に質問を投げかけ、数分間自身で考えてもらい、クリッカーで回答をしてもらう。その後、学生相互で相談してもらい、再びクリッカーで回答をしてもらう。多くの場合は、これでほぼ全員理解に達しているが、2回目でも回答が分散しているときは、もう一度同じことを繰り返すか、十分な時間をとり説明をする。

 学生は相互に相談する過程で、質問や考えを口に出し、自分の頭で問題をプロセスする。「人に教えるのは最大の学びだ」とはよく言われることである。理解が進んでいる学生は、同級生の理解できていない点を模索、把握し、説明を試みることで、理解をさらに深めることができる。理解が十分にできていない学生は、同級生に自分がよく分からない点を分かりやすく説明しようとし、自分の理解できていない点の明確化を図る過程で、理解が進む。場合によっては、分からない点を説明しようとしているうちに、自分で分かってしまう。

 この方法では受動的に授業を聞いているのに比べて、全学生が、概念をより良く理解したり、知識をより定着させたりできる。また、同級生の異なる見方を知ることを通じて、一つの問題を多面的に理解する機会を得る。

 これまでの双方向授業は、教員の問いかけに対して一部の積極的な学生が答えるだけであったが、PIでは隣同士の学生で相談するため、教室内の学生のほぼ全員が主体的に学ぶ点で優位である。

■痒いところに手の届く教育:ジャストインタイム・ティーチング(JiTT)

 一方このような授業展開においては、学生の理解を掘り下げられるような問いかけの仕方がキーとなってくる。これについてマズール教授は、「ジャストインタイム・ティーチング(JiTT)」という手法を用いている。

 ジャストインタイム・ティーチング(JiTT)とは、反転授業において学生が自宅学習したときに疑問に思った点や、最も面白いと思った点を、授業が始まる1時間前までに教員宛てに送付しておいてもらい、教室ではこれら指摘のポイントを中心に授業を進めるという方法である。学生が疑問に思っていることに対して、痒いところに手の届く教育ができることから、この名前が付いた。

 マズール教授は基本的には、学生から事前に送られてきた疑問点を教室にそのまま投げかけるかたちで、この方法を用いている。一人の学生が分からないことは、複数の学生が理解できていないことが多い。質問をした学生にとっては、クリッカーを通してクラスの同級生の理解度が分かり、自分だけではなかったと安心が生まれる。また、自分が疑問に感じていた点がPIを通して多面的に吟味され、より深く理解する機会を得る。

■未だにある学生からの反発と、大学の存在意義

 一部の学生からは現在でも根強い抵抗がある。「ちゃんと教育をしてほしい」「自分で教科書で学ぶために授業料を払っているのではない」などのクレームがくる。しかし、マズール教授は、概念の真の理解は、知識伝達型の講義ではなく、アクティブ・ラーニングから来るものであるとの信念を譲らず、この教育方法を続けている。

 「大学教育の役割が知識伝達だけにあるなら、優れた講義を録画してネット公開しておくので十分である。しかしライブの教室体験が、学生が自身が知的存在であることを自覚し、そして他の知的存在と関わり合っていくうえで、最も優れた方法であることは明らかである。人間はその人生を通じて、仲間から学んでいく。『学習は社会的な体験(social experience)』である。ハーバード大学は、建物や教授が存在するからハーバード大学なのではなく、学生が相互に関わり合っているからハーバード大学なのである」と同大学デレック・ボック教育・学習センター長のアラジェム氏は語る。

(*) 正解は、作用・反作用の法則により、同じ。

(参考文献)
[1] Harvard Magazine, “Twilight of the Lecture: The trend toward “active learning” may overthrow the style of teaching that has ruled universities for 600 years” (March-April 2012)
[2] Center for Teaching, Vanderbilt University, “Highlights from a Conversation with Eric Mazur” (2002)
[3] Eric Mazur, “Farewell, Lecture?” Science 2 January 2009: Vol. 323 no. 5910 p. 50-51
[4] Education, Mazur Group(マズール教授ホームページ、教育面のページ)

   

東京大学 教育企画室 特任准教授 船守美穂 (2014/03/24)

  
  

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