G型でもL型でもない、本当に日本に必要な大学

雇用論議での過ちを教育改革に持ち込むな

 社会は様々なセクターの複合体であり、どのセクターも、周囲のセクターと互いに干渉や反発や妥協や協力を重ねながら、均衡する方向に変化を遂げてきた。だから、どこかのセクターで問題が発生した時に、その分野だけが不連続な動きをとれば、周囲と軋みを起こし、それは長続きしない。つまり、出来上がってしまっている社会は、文化や習慣の異なる別の社会から、何か一つの機能を単純に取り込むことが難しい。例えば、教育や雇用や家族のあり方や男女の恋愛作法等、どれをとっても、今の日本に、他国の羨むべき風習をそのまま移植することはできない。それは、血液型も免疫機構も異なる他者の臓器を、自己の弱った臓器と入れ替えるようなものだ。

 私が主戦場としている雇用の場では、こんな無理筋の移植論議が性懲りもなく繰り返される。もちろん、そんな現実離れした改革案はどれも結実しはしない。教育には同じ轍を踏まないでほしい。グローバル化や産業の高度化といったご託宣があふれるせいで、「すぐにでも欧米の使えそうな仕組みを移植手術せねば」という気持ちが高まる。ただ、そのほとんどが現実には着地できない。

 この小文では、近頃喧しい「教育と職業の接合」論議について、大いに冷や水を浴びせたい。そして、日本の社会と産業が本当に求めている解を提示しておく。それは、G型L型などと騒ぐほどの話ではなく、当たり前で実現可能な改革にとどまる。

ポテンシャルで採用する日本、スキルで採否を決める欧州

 日本と欧米、とりわけ欧州を比べた時に、産業と教育の接合に大きな違いがあることは、既によく知られている。その違いを、ものすごく単純化して語るならば、以下のようになるだろう。

  • 日本の産業界は、職業教育は会社に入ってから自社で行う。それを教育界には求めない。企業が採用時に気にするのは出身校の偏差値であり、あとは、本人のキャラクターや基礎能力となる。
  • 欧州の産業界は、職業教育された実務能力のある人を雇う。だから、教育界に職業教育を求める。それぞれの仕事ができる・できないが、採用の基準となる。

 この両者を比べれば、明らかに欧州のほうが採用基準に透明性があり、労働者や学生も何を身につければよいか明確に分かる。つまり合理性が高いと言えよう。

 こんな非合理的な日本社会でも、かつてなら、多くの学生達が卒業時点で職を見つけることができた。だから社会的にも不満が溜まることはなかった。ところが、昨今では大卒でも正社員就職が厳しくなっている。とすると、この不透明な採用基準をただし、学生の間に身につけるべき職業能力を明らかにし、それを在学中に教えるべき、という意見が勢いを増すことになる。ここまでは、論理的には何の不整合もない。ところが、現実にそんな仕組みを取り入れた時、日本社会には大きな混乱が起きることになる。なぜか。

 よく考えてほしい。例えば、今、ここにいる学生が「経理事務」として、伝票処理や仕訳が万能にできるとする。その学生を採用する企業はどんなことを考えているか。日本人ならあくまでも「事務は入口であり、数年したら、決算業務をリードする人物になり、その後、税務や管理会計も覚え、35歳にもなれば、経営管理業務に携わるように育ってほしい」と考えるだろう。つまり、「経理事務」はあくまでもキャリアの入口であって、それがうまい下手よりも、将来、決算→税務→管理会計→経営管理と階段を上っていけるような「人間性」のほうが採用基準として重要になる(図表1)。

 欧州の場合はそれが全く異なる。例外的なケースを除けば、事務で入った人は、一生事務をする。だから、入口で「事務力」以外は問われない。階段を上らないキャリアだからだ。財務会計や管理会計については、大学などでその業務を学んだ人が就く。そして、彼らも一生それをする。経営管理に関しては、グランゼコールや大学院などで、それを学んだ人が就く。こんな形で、学歴と専攻に従って、公的な職業資格が与えられ、それにふさわしい仕事をする。つまり、一生事務のまま、決算担当のまま、そんな構造になっているのだ。

 欧州ではどの国にも、この学歴職業資格という仕組みが存在するが、フランスは特に細かく区分を分けており、公的な職業資格は8000を超える。学歴と資格に区切られたこの職業体系を同国では「ディプロム」と呼ぶ。

「籠の鳥」と揶揄される、欧州型のキャリア

 この仕組みを話しても、まだ多くの日本人には欧州社会の厳しさが理解できないと思う。たぶん、こんな感じのことを考えるのではないか。「事務一筋何十年もやっていたら、凄腕のスペシャリストになって、年収も上がるだろうし、みんなに敬意も払われる」。

 しかし、彼らの年収はほとんど上がらない。同一労働同一職務が徹底されているからだ。そして、話した通り、昇進や昇格も望めない。なぜなら、上のポジションには、ポジション相応の学歴や職業資格が必要となるからだ。だから、彼らは上にも横にも閉じられた「箱」の中でキャリアを全うする。その様を、彼らは「籠の鳥」「箱の中のネズミ」と自嘲気味に語る。その様子を示したのが、図表2となる。これは、フランスの男性フルタイム労働者の年齢別年収を、職群ごとにグラフ化したものだ。以下、これの説明をしていく。

 まず、一番年収が低いのが資格なく働く人達(無資格者)。彼らの年収は、20代後半で凡そ290万円(1€=130円換算)であり、それが50歳で約330万円となる。その次に低いのが、製造系の資格を持つ人達(工員)。彼らの年収は20代後半で300万円程度であり、50歳の時には360万円となる。続いて、事務系や販売、サービス、テクニカル等の資格を持つ人達(有資格者)。彼らの年収は製造系よりほんの少々上で、20代後半でで330万円弱、50歳で400万円弱となる。ちなみに、ここには、短大や高等専門学校、大学の職業課程等を卒業した人が進む。さらにその上の「中間的職務」は、20代後半で400万円、50歳だと530万円とそこそこ昇給はしている。こちらには、(職業課程ではない)普通の大学を出た人が主流となる。経理の例で言えば、決算や管理会計を担当している人達だ。そしてその上の「カードル」と呼ばれるグランゼコールや大学院をを出た人達は、20代後半560万円、50歳1000万円と、飛び抜けて年収が高く、昇給幅も大きい。

 ただ、ここまで書いても、「いや、頑張った人は、無資格労働者→資格労働者→中間的職務→カードルと上っていくのではないか」と考える人も多いだろう。なぜなら、日本人は誰でも普通に昇給し、そのうえ、少なくない人が係長→課長と進むからだ。がしかし、やはり欧州ではそうしたケースは少ない。図表3を見ればそれが分かるだろう。職群ごとの年齢別割合を出したものだ。確かに30代前半までは無資格者が減り、中間職・カードルが増える。しかし、それ以降はほぼ固定化され、構成はほとんど変わらない。日本のように、30代後半から50歳にかけて管理職が急激に増える、ということはない。「入口時点のスキルで採否を決める」というのは、こういう社会だからこそ可能だと気づいてほしい。

階層間を上っていく日本型キャリア

 ちなみに、日本の男性フルタイマー社員の年収構造を同じように示したものが図表4となる。言われる通り、日本は企業規模による年収の格差が大きい。がしかし、よく見てほしい。どの企業規模でも、大卒者の場合、無資格者クラスで始まった年収が、30歳までには有資格者並となり、その後も上伸して、最終的には皆「カードル」レンジに到達してしまう。欧州と比すれば、「階層を上りつめる」キャリアといえよう。

 このキャリア構造の違いが、日本社会では、働く人にも使用者にも心の中にインプットされている。平たく言えば、こんな感じだ。「給与は上がって当たり前。役職は上がって当たり前」、「入った時と同じ仕事をしてもらっていては困る。経験相応の難易度は上げる」。こんな「上がって当たり前」という常識が労使双方にある中で、「入口のスキル」では採否は決められない。だから、単純に欧州型職業教育を日本に持ち込むことは難しい。

G(グローバル)型大学は必要だが、ほんの少しで十分

 昨年より、大学をG(グローバル)型とL(ローカル)型の2パターンに分けての議論が盛り上がっており、大学改革では、グローバルな高度人材育成を旨にすべき、という話もよく聞く。それが学術研究分野の話であれば、私は知見がないので何も言うことはない。そうではなく、産業に資する人材というのであれば、大いに異見をぶつけたい。

 確かにそんな高度人材は必要だ。ただ、それはほんの少数である。欧米のすごいところは、「国民全員グローバルで高度化」などとはゆめゆめ語らず、ほんの少数の超エリートを英才教育する仕組みを作っていることだ。その現実に気づくべきだろう。例えば、アメリカの超一流大学といえば、スタンフォードやMIT、ハーバード、プリンストン、イェール等の大学名が頭に浮かぶだろう。このほかにも、各地域にトップクラスの私立大学がある。一流校の名前を並べるだけで、20校程度になってしまうだろう。それだけあるから、日本人は、「きっと、MARCHか関関同立くらいの感じだろうか」と考えてしまう。これこそ、冗談はよしてくれ、なのだ。

 先に挙げた超名門5校の入学定員を図表5にしてみた。各校1100〜1600名程度であり、5校合わせて6945名。その数は慶應義塾大学1校程度であり、早稲田大学の3分の2でしかない。その他合わせて20校になるといっても、学年定員は2万人ちょっとだろう。あちらの大学生数は200万人を超える。つまり、上位1%の世界なのだ。同じ比率で言えば、日本なら東京大学と京都大学を足した程度の卒業生だろう。

 これが現実なのだ。この少数者が、とてつもなく高い授業料を払い、さらにそれだけ希少人材だから、企業も潤沢に寄付をする。だから、濃い実践教育ができる。1校で5000名も1万名もいる日本の大学ではとても無理なのだ。

グローバル人材のニーズは実際にどの程度あるか

 産業界の側からも考えておこう。グローバルなハイパーエリートを、企業は果たしてどのくらいの数必要としているのか。実際、考えてみよう。例えば、グローバリゼーションの波がとりわけきつく押し寄せるといわれる金融業界で、本当にグローバルな仕事をしている人はどれくらいいるか。信用組合や信用金庫にはほぼいないだろう。地銀や第二地銀にも少ない。農協やゆうちょ銀行でも、中央にいる一部の人達だけだ。メガバンクはどうか。こちらだって、毎年1000名も新卒採用するが、そのほとんどが、地方支店でキャリアを終える。本店に引き抜かれ、グローバルに羽ばたいて、海外でプロジェクトファイナンスをする人間など1割もいないだろう。メガバンクでさえそうなのだ。

 これは電気産業でも自動車産業でも同じだ。国内販売網を代理店が担い、そこに修理配送等のサービス拠点も併設する。圧倒的多数がそこに採用される。本社本体に採用されるのは、グローバル大手メーカーでも文系は100名程度となる。この100名は確かにグローバルな仕事をする可能性は高いが、それでも、比率でいえば、3〜4割ではないか。こんな構造なのだ(図表6)。

 グローバル人材のニーズをいくら足しても、アメリカが2万名、フランスなら4000名、日本は1万名が関の山だろう。それに資する学生を有する「ほんの一部の」上位大学が頑張れば十分だ。確かに秋田の国際教養大学や立命館アジア太平洋大学は、彗星のごとくグローバル化に成功し、その「一部のワク」を獲得した。が、しかしそれは先見の明があったからこそできたので、今から真似をしたとしても、勝ち上がれる可能性は低い。

 ここでは、大学関係者を惑わせる企業の声もくさしておきたい。企業人は何かにつけ「グローバルな人材が必要」と言う。本当にそこかしこにグローバルな仕事がころがっているわけではないのに、なぜそう言うのか。一つは、企業は贅沢を言いがちなのだ。機会もそれほどあるわけではないのに、その少ない機会に「いざという時誰でも行けるように」とそんな理不尽な贅沢を言っていることが大きいのだ。

 もう一つは、結局、グローバル人材といっても、グローバルエリートではなく、外国人観光客に対応できたり、サービス流通業などを中心に増えている外国人労働者・技能実習生などとうまく対応していける人材を指している場合が多い。こうしたインバウンドニーズを全て「グローバル人材」と呼んでしまっているので誤解が生まれる。こちらのタイプの人材には、異文化を受け入れる教育や、おもてなし教育などの「人間形成」が重要になる。G型教育とは全く異なる話だろう。単に語学教育だけでなく、こうした人格面での教育がセットされるなら、非常に産業界も喜ぶだろう。色々な立場の人の意見をわだかまりなく聞け、胸襟を開ける人材は、外国人だけでなく日本人相手の仕事でも力を発揮するに違いない。

日本企業の中で階段を上るメカニズム

 と、ここまでで、欧州型の職業教育を単純に日本に持ち込むこと、そしてG型大学のニーズに関して冷たい見方を示した。ただ、批判だけで終えては意味がない。日本の産業はどのような大学教育を欲し、同時に、どのような仕組みであれば、日本の社会や個人の心になじむのか、を書いていきたい。

 まず、再度言うが、日本の企業は、「入った時の仕事をずっとしていられては困る。習熟を積んでどんどん上の仕事を目指してほしい」と考えている。同時に働く人々は、「同じ給与で同じ仕事だったら、いつかは飽きてしまう」と思っている。要は、どちらも「階段を上る」ことが前提なのだ。とすると、この力を厳しく育ててほしい。それが大前提となる。

 さて、こう書くと「それは社会人基礎力のようなものか」という質問が出そうだ。いいや、そんな小難しい力ではない。多くの学生は普通の中堅・中小企業に就職していく。そうした企業で普通に「階段を上っていく」力とは、何だろうか。

 まず、日本型の職務無限定雇用の仕組みはどうなっているかを最初に書いておく。それは、欧米のようにやるべき課業(=タスク)がパッケージとして決められ(=ジョブ)、それだけをやるという仕組みとは全く異なる。誰にでもできそうな仕事を寄せ集め、何も知らない未経験者にやらせることから始まる。だから、素人でも問題なく入り込める。ただ、それでも当初は戸惑う。そこで叱られ、恥をかき、それに耐えると、じきにうまくなる。それでぱっぱとこなして早く帰ろうとすると、「暇してるのは許さない」と、タスクを入れ替えられ、難易度の高いものが増えていく。そこでまた、叱られ、恥をかき、耐える…。こんな形で、知らない間にどんどん難易度が上がっていく。だから脱落少なく成長ができる。決して「教育に力を入れている」わけではない。単に、「暇してるんなら、もっとやれ」の連続となる。

企業が必要とする当たり前の力

 この「叱られ、恥をかき、慣れたら次の難題が与えられる」仕組みについていけるような人間形成を、企業は一番望んでいるのだ。具体的に企業が必要としている能力は以下の通りとなるだろう。

  • 1) 忍耐力・継続力
  • 2) 思考力(論理構成)
  • 3) 咀嚼力・説明力(話す・聞く)
  • 4) 協調性(仲間とうまくやる)
  • 5) 社会適応力(マナー、ルールを守る)

 この5つが揃っていれば、そこそこの企業に採用はされるだろう。ところがこの5つが最近(いや昔からか)の大学生には乏しい。だから就職が覚束なくなる。

 さあ、ここに挙げたものを鍛えるのはどうしたらよいか?まず、1〜3の「忍耐、継続、論理構成、話す、聞く」の力。これこそ、コロンブスの卵というか、本来のアカデミズムの本道だろう。スキル教育ではなく、学問を修得する努力が、こうした力を培う。何よりも、アカデミズムこそ、こうした全人格形成に資するのだから。

 ならば、G型L型といった区分など考える必要はない。講義やゼミの運営を徹底的にハードにすれば、それで済むのではないか?授業に即して、毎回レポートを書かせる。それも、「書けばいい」という内容ではなく、論旨の乱れを突き、冗長な文体をただし、的確な比喩や模式化を使えるように、びっしり赤入れをする。講義ではプレゼンテーションやディベートを取り入れる。それも、聴衆学生達に評価をさせ、理解できたか、納得できたか、どちらが勝ちかなどを突きつける。期末に論文を出させ、それは学術論文同様にしっかり査読し、付箋をびっしり貼って、それをクリアするまで、何度も出し直しをさせる。こんな授業を繰り返せば、「話す」「聞く」「考える」「理解する」「耐える」「続ける」力は自ずと培われていくだろう。その過程は、企業の「無理難題」に耐えながら腕を磨く社会人生活と相通じる。こんな苦労をしてきた人達ならば、企業の生活こそ「楽」に感じるのではないか。

今の学部編成でその力は十分培える

 で、何を題材にするか。再度言おう。題材は、今の学部構成のままでいい。法律・政治、経済・経営、文学、教育といったいわゆる一般的な専攻のままで、その中にいくらでも題材は探せるだろう。今のままの学部構成で、授業を少し変え、厳しさを格段にあげる。それだけで、日本型企業に役立つ仕組みとなっていく。出席を厳しくとり、授業中の私語やスマホや居眠りは許さず、遅刻をしたらきちんと理由を説明したうえで頭を下げ…。こんな授業にすれば、5)の社会適応力も高まる。時間にルーズで、マナーに欠けていたら社会では通用しない。それも大学の授業を通して徹底的に教え込めばいい。社会に出たら、経済も法律も文学も、仕事の中でほとんど使う場面はない。だが、学問を通して身につけた「話す・聞く・考える・理解する・耐える・続ける」と言った力は、永遠に重宝するはずだ。企業が必要なのは、パソコンに例えるならば、入口用のスキルというチープな“アプリケーション”ではなく、永遠に通用する“OSの厚み”なのだ(図表7)。

 ドイツでは、大学を卒業した人も、大学に行かずにデュアルシステムという職業訓練体系に進んだ人も、どちらも修了した暁には、社会は温かく彼らを迎える。なぜか。それはどちらもとても厳しい仕組みで、そこを耐え進んだ若者達は、社会の荒波にもまれる力をつけたとみなされるからだ。それと同じだろう。

今のままで「厳しく鍛える」ことが日本型の「学ぶ」と「働く」の接続となる

 気づかないか。欧州の階層社会は、上にも横にも閉じて、一生同じ仕事をする。その賽の目構造に合うように教育も進化してきた。日本の「上に向かう」社会では、企業は全人格的な能力を重視する。だからこそ、全人格形成ができるアカデミズムが大学の基本になった。つまり社会相応に、経路依存的に教育も構成されているのだ。

 要は少子化→全入時代で、それが「学生に甘く」なりすぎていることが問題なだけだ。だからこそ、襟を正し、改めて厳しく学生を鍛える教育を行う。それで、今の社会にマッチした大学に十分変われるのではないか。

【PROFILE】
海老原 嗣生(経済産業研究所 雇用労働市場改革プロジェクト員、立命館大学 客員教授、人材・経営誌HRmics編集長、株式会社ニッチモ代表取締役、リクルートキャリア フェロー(特別研究員))
1964年、東京生まれ。大手メーカーを経て、リクルートエイブリック(現リクルートエージェント)入社。新規事業の企画・推進、人事制度設計等に携わる。その後、リクルートワークス研究所にて雑誌Works編集長。2008年にHRコンサルティング会社ニッチモを立ち上げる。著書に、『雇用の常識、本当に見えるウソ(プレジデント)』『偏差値・知名度ではわからない 就職に強い大学・学部(朝日新書)』『日本人はどのように仕事をしてきたか( 中公新書ラクレ)』ほか多数。『エンゼルバンク』(モーニング連載、テレビ朝日系でドラマ化)の主人公 海老沢康生のモデルでもある。