大学を強くする「大学経営改革」[14] 大学教育に期待される役割と課題 吉武博通

 来年3月卒業予定の学生にとっては本稿を執筆中の4月が就職活動の正念場であろう。筆者の教員としての活動拠点は社会人大学院であるが、学士課程で担当する2つの科目の履修生を中心に進路相談を受けることも少なくない。筆者の頃の就職活動が極めて短期間に終了したことや入社後に採用活動に携わった経験から考えると、現在の学生の就職活動に要する期間と労力は大変なものがある。特に、パンフレット、ホームページ、ネット上の掲示板、メールを通じた情報交換など、学生たちが手にする情報の膨大さに驚かされる。相談に訪れる学生の多くは、氾濫する情報を整理できずにいたり、エントリーシートの書き方や面接の受け答えに一つの正解があるかのように錯覚して、素直に自分を表現できなくなっていたりで、頭の中の整理を手伝うだけですっきりとした表情になって帰っていく。

 大学として学生の進路指導にどこまで手をかけるべきなのかなど自問自答しながらの対応であるが、これらを通して得る情報や感覚は新鮮であり貴重である。受入先である社会が学生に何を期待しているのか、大学と社会の接点に立たされた学生が何を感じ何に悩むのかを理解することはキャリア支援を含む今後の大学教育のあり方を考える上で重要な意味を持つ。

 現在は、大学の一員として教育に関わり、学生を社会に送り出す側に転じたが、会社員時代の3月から4月にかけては、就職説明会に集まった学生を前に会社のPRをし、入社式直後の新入社員に対しては経営現況について講義し、彼らの将来のためにも良い会社にせねばなどと肩に力を入れていたことを思い出す。

 教育して送り出す側と受け入れて育てる側の両方の経験を踏まえながら、学士課程を中心に大学教育に期待される役割と課題について考えてみることにした。

授業担当や教育改革への参画を通して考えたこと

【担当する2つの授業の狙い】

 前述したとおり、学士課程で2つの授業を担当しているが、その一つである社会工学類の「実践ビジネス基礎」は、会社経営の仕組み、法律・経済・経営・会計など経営に必要な知識と学問の体系、戦略・組織・マーケティングなど経営学のエッセンスを学ばせるもので、学生に読ませたい経済記事や雑誌を紹介したり、企業の財務諸表を用いたりして生きた教材と理論を自分の頭で結びつけるように指導している。

 もう一つの日本語・日本文化学類の「日本の経済と文化」は、社会科学に縁のない言語・文学・歴史系の学生たちに、経済や経営も文化の側面を有していることを理解させながら、社会科学に対する興味・関心を呼び起こし、社会科学的な思考法に触れさせようとするものである。

 2つの授業に共通する狙いは、学問体系の理解と基礎的知識・理論の習得、周辺学問領域への興味の拡大、実社会の動きと学術的知識・理論の結合、専門領域への深化の動機付け、自学自習を促すための仕込み、ということになる。筑波大学では学士課程の科目を基礎科目、専門基礎科目、専門科目の3つに大別しているが、担当する2つの授業には組織を超えて学生が集まり、教養的な科目として学ぶ者、専門教育の内容と実社会を結びつけようとする者などその動機も様々である。自由度の大きい教育システムという本学の特色をあらためて実感させられる。

 2科目とも時間数も限られ、内容面でも改善・充実すべき点が多いが、将来は法律・経済・会計なども含む最広義の経営教育体系を学士課程で構築してみたいと思う。それに向けたささやかな試みが2つの授業の狙いでもある。

【教養教育と専門教育の意味を問い直す】

 このような自身の取り組みと学群・学類改組に携わった経験を踏まえ、あらためて学士課程教育について考えてみると、学士課程教育の目的、教養教育と専門教育の意味するところなどが、学問分野ごとに、また語る人ごとに実に様々であることに気付かされる。

 教養教育についていえば、大綱化以前の教養課程に相当する一般教育的な科目群をイメージしたり、舘昭桜美林大学教授が指摘するとおり「リベラル・アーツと教養の混同」が見られたり、統一的な概念整理がなされていないように思われる。

 また、専門教育についていえば、医学教育のように医師という特定の職業に就くための専門教育と、人文・社会科学系や理学系の専門教育とでは「専門」の意味するところが異なる。工学系は両者の中間あたりに位置することになろう。医師と医学教育ほど強い結びつきはないものの、工学の各学科は業種や職種と緩やかに結びついているからである。

 このように強弱はあるものの職業と一定の結びつきがある学問分野は、教育目的や到達水準を明確にし易く、それに沿う形で専門教育の改善・充実が図られることになる。

 それに対して、人文・社会科学系などの分野においては、個々の教員の比較的狭い領域での研究活動に基づく知識の伝授が中心になりがちであり、学生の側もそれらをそのまま束にして身につけているだけというケースが少なくない。これらの分野において専門教育はどのような目的を持つべきかを明確にし、その達成に向けて組織・個人それぞれのレベルで教育の充実に努めない限り、専門教育が教員のためだけの「専門」にとどまってしまうことになる。

 以上の問題意識を踏まえた教養教育と専門教育のあり方については後述する。

会社の実務経験から大学教育を考える

【高度な教育を受けたという自信・自覚の重要性】

 会社で人事を担当したり、組織を率いたりしていると、大学卒社員と高校卒社員の差について考えさせられることがある。差があって当然と思いがちだが、業務遂行能力や成果の面で同年代の高校卒社員が大学卒社員より優れていると感じるケースも少なくないのである。

 学校時代の学習経験が会社の仕事にどう活かされるのかなどに関心を持ちながら、30歳以下の大学卒社員と高校卒社員合わせて十数名を集めて月一回私的な勉強会を開くことにした。その初回の冒頭に冗談交じりに3つの仮説を示した。「日本経済新聞を購読しているけれどしっかり読んでいないのが大学卒、購読すらしないのが高校卒。NHKの英会話テキストを購入して5月で挫折するのが大学卒、英会話は無縁と考えるのが高校卒。ビジネス書を買って数十頁で止めるのが大学卒、手に取ることもしないのが高校卒。」と。一つずつ挙手させながら確認すると、ほぼ正確に言い当てていることがわかった。そこで、「実際の勉強量に大きな差がないことがわかっただろう。高校卒社員は日経も英語もビジネス書も自分には無縁だと思い込んでいるだけだ。自分で高さ制限し、広さ規制していないか。」と続け、当時ベストセラーになっていた米国のビジネス書の翻訳本を紹介した。数日後、読み終えたと真っ先に報告にきたのは高校卒社員であった。

 少し長くなってしまったが、このエピソードが意味するのは、高度な教育を受けてきたという自信や自覚の重要性である。これらが、職場においては仕事の幅を広げたい、より難しい課題に挑戦したいという意欲につながり、職場を離れても知的欲求や自己啓発の源となるのである。一方で、このエピソードは環境や場が与えられて、動機付けさえできれば、大学卒でなくとも挑戦意欲や知的欲求の水準を高めることができることも示している。

【組織の仕事は Routine、Solution、Management】

図 組織の仕事と求められる能力

 次に、大学で学んだことが会社などの組織でどのように活かされるかという観点から考えてみたい。少なくとも文科系出身者の場合、大学で学んだ知識が直接仕事に結びつくことは稀ではなかろうか。それに対して、工学系出身者の場合、大学での専攻や研究テーマが業種や職種と結びつくことが多く、仕事をする上で理論・法則や原理に関する理解、分析・解析に関する知識・方法論などが必要になる。ただ、最先端のテクノロジーの多くが大学の外で生み出される現代において、大学で学ぶ応用的知識が活かされることは少ないのではなかろうか。確かな基礎・基盤的な知識や方法論が重視されるのはそのような理由によるものである。

 文科系・理工系を問わず、会社などの組織で行われている仕事は、ルーティン(Routine)、ソリューション(Solution)、マネジメント(Management)に大別できる。入社して数年はルーティンが中心であり、業務処理の正確さや能率が重視される。ある程度の信頼が得られると次第にソリューションのウエートが増し、問題解決能力が業務の成果を左右するようになる。さらに経験を重ねながらマネジメントに関わるようになっていくのである。この段階になると、業務処理の正確さ・能率や問題解決能力などは既に高いレベルにあることを前提にした上で、人の気持ちを動かす人間的魅力のようなものが最も重要な要素になってくると考えている。

【問題解決(Solution)能力とは何か】

 上に述べた3つの中でも、ソリューションは組織内のポジションに関わりなく、常に求められる重要な要素である。そもそも組織というものが問題解決のために合目的的に編成されたものである以上、それは当然であろう。

 経験的に、問題解決には、

  • 問題の発見・認識
  • 問題の本質の理解
  • 解決方法の選択・考案
  • 実行・解決
という4つのステップがあると考えている。

 どのステップも等しく重要であるが、①の「問題の発見・認識」がないと全てが始まらない。組織の活性度は問題発見・認識能力によるといっても過言ではない。活性度の低い組織は問題を問題とも認識せず、逆に活性度の高い組織は高い目標を掲げるがゆえに、それを実現するための様々な問題を認識することになる。そして組織の問題発見・認識能力は個々の構成員のそれに依存する。個々人の目的意識の高さ、視野の広さ、感性の豊かさなどが重要な要素となる。前述のエピソードで述べた「高度な教育を受けてきたという自信や自覚」がこれらを育むベースとなるのである。

 「仕事のセンスが良い」という言い方を耳にすることがあるが、②の「問題の本質の理解」を指していることが多いように思う。問題の位置づけ・軽重・優先度の見極め、問題の構造の解明(構造化・可視化)が主たる要素となる。また、③の「解決方法の選択・考案」については、学術的または技術的に確立した方法論や事例に関する知識、自らの経験などが豊かであればあるほどより適切な選択・考案が可能となるはずである。

 ②や③において求められる素養こそ、大学教育においてある程度までは身につけることができるものであり、大学はそのことを十分に意識して教育の内容や方法に最大限の工夫を凝らすべきである。

 例えば、自然現象、社会現象、経済現象などの解明は、様々な要因の中から当該現象を引き起こす要因を探り、関係する要因の影響度などを解明するもので、②の能力の伸長につながる。また、法学や経営学で扱う「ケース(Case)」は様々な紛争事例やビジネス事例について問題の構造を解明し、最も合理的な解決策を導くものである。質・量の両面で米国のプロフェッショナルスクールに遠く及ばないものの、工夫次第で学士課程段階でも基礎的な教育を行うことは可能である。

 最後に④の実行・解決であるが、この能力は経験を重ねる中で身につけていかざるを得ない。ただ、実現が難しくとも簡単に投げ出さない、自分を信じ周囲を信頼する、あの人が言うならばやってやるかという雰囲気を作り出す、といった人格的素養は、課外活動を含む大学までの学校教育の中でもその土台となるものを培うことができる。

教養教育と専門教育の目的とあり方

【人格の陶冶を目的とした教養教育】

 これまで述べてきたことは、会社など組織で働く場合を中心にした職業上の観点からのものであるが、確かに職業は人生の大きな部分を占めるものの、職業に就く期間は人生80年の半分の年数でしかない。

 また、人間が組織の中で働くようになってからそれほど多くの時間が経過したわけでもない。例えば全就業者に占める雇用者の割合が2006年において85%であるのに対して、1953年時点では42%、つまり6割近くが自営業主または家族従事者であった。日本の就業者の半数以上が雇用者となる、つまり組織に帰属して働くようになってからまだ50年足らずの時間しか経っていない。そして、来るべき将来の産業構造や就業構造がどのように変化していくのか確かな予想はできない。明らかなことは、あらゆるものの変化がその速度を増しつつあるということである。

 このような時代であるからこそ、目先の変化に惑わされることなく、歴史を振り返り、遠い未来を洞察し、社会や世界に広く目を配れる人材の育成が求められるのである。また、少し哲学的な用語になるが、理性・悟性・感性を高いレベルでバランスさせていくことも、知識や情報が氾濫し複雑化する社会を人間らしく生き抜くために重要になってくるものと思われる。

 だからこそ、「人格の陶冶」が大学教育の最も重要な目的となるのである。それを担うのが教養教育である。ここでいう教養教育とは、大綱化以前の教養課程や一般教育などの特別な教科群を指すものではない。自分の専攻の専門科目を深く学ぶとともに、専攻外の基礎科目や専門科目を幅広く学ぶことにより、教養教育と呼ぶに相応しい視野の広さと思考の深さを身につけることができるのである。

【「職業教育」としての専門教育】

 次に、専門教育について考えてみたい。専門教育という用語には、専門的な職業に就くための教育、基礎教育に対する専門教育、単に特定の分野の教育を指す場合の3通りの使い方があるように思う。本稿では用法に関する言及は避け、基礎教育に対する専門教育を念頭において議論を進めることとする。

 いずれの教育組織にも専門教育は存在するが、職業との結びつきの強いものから、一般的には結びつきがないと考えられるものまで様々である。印象の域を出ないが、教育内容の改善・充実への取り組みなどは、職業との結びつきの強い専門教育の方が、総じて活発であるように思う。職業との結びつきが弱い場合、教育改善を迫られる機会がなく、改善のメカニズムも働きにくいからであろう。

 一方で、学生の志向は職業や資格を重視する傾向にあり、このまま放置すれば、当該学問分野自体が縮小を余儀なくされる事態を招きかねない。その結果、科目選択の幅も狭まり、大学が提供する教養教育も不十分なものとならざるを得なくなる。

 職業教育は、専門的な職業のためだけのものではない。特定の職業との結びつきがない学問分野においても、先に述べた問題解決能力を確かな形で養成することにより、学生の進路の幅を広げ、当該学問分野と広範な職業を結びつけることができるのである。その結果、その結びつきがきっかけとなって教育改善のメカニズムが機能し始めるはずである。このような意味からも、いかなる学問分野の専門教育も職業教育としての役割を担うべきなのである。

 以上述べてきたとおり、大学教育には人格の陶冶と職業教育という2つの大きな目的があるが、これらの目的は深く相互に関わり合うものであり、2つの目的に分けて組織やカリキュラムを編成すべきものではない。学問分野に関わりなく、大学とその構成員たる教職員が2つの目的に基づいて教育体制を整え、教育内容・方法を不断に改善していくことが大切なのである。そのようにして構築された質の高い教育により、高度な教育を受けてきたという自信と自覚を持たせて、学生を社会に送り出すことができるのである。



(吉武博通 筑波大学理事・副学長 大学院ビジネス科学研究科教授)


【印刷用記事】
大学を強くする「大学経営改革」[14] 大学教育に期待される役割と課題 吉武博通