大学を強くする「大学経営改革」[19] あらためて教養と教養教育を考える 吉武博通

はじめに

 2008年は世界的な株価急落という波乱の幕開けとなり、米国をはじめ各国は事態の打開に腐心しているが、足元の問題だけでなく、地球温暖化という人類の生存に関わる問題の解決についても、世界が協調して方向性を定めるべき重要な年になるものと思われる。

 日本国内の現状を眺めてみると、政治は混迷の度を増し、経済面での自信も新興国の急速な発展の前に揺らぎ始めている。1990年代後半以降“改革”が繰り返し唱えられているが、多くの人々が改革の進展を実感できるまでには至っておらず、先行きの不透明さと相俟って社会の閉塞感は増すばかりである。

 かかる状況において人々が求めるものは、確固たる将来の展望であり、それを担う“真に骨太の人材”ではなかろうか。情報が氾濫し、変化の速度が増し、従来のシステムや方法論では容易に解決できない問題が次々に押し寄せる。高度化・多様化する知識を組み合わせ、問題の本質を見極めつつ、より有効な解決策を考え、周囲と対話・協働しながら、その実行を通じて未来を切り拓く。そのような人材を骨太の人材と呼ぶならば教養はそれを支える不可欠な要素である。

 近年、教育関係者に限らず多くの人々が教養や教養教育の重要性を指摘する理由の一つに、このような社会的背景があるものと思われる。

一般教育・教養教育をめぐる議論の動向

 教養とは何かという本質的な問題を検討する前に、一般教育・教養教育をめぐる1990年代以降の動きを振り返っておきたい。なお、ここでは一般教育と教養教育を特に区別せずに稿を進めることとする。

 1991年2月大学審答申「大学教育の改善について」を受けた大学設置基準の大綱化以降、各大学はカリキュラム改革に取り組んだが、要求単位数で見る限り多くの大学で専門教育の拡充と一般教育の縮小という状況が生じた。同答申が「一般教育等の理念・目標は極めて重要であり、それが軽視されることがあってはならない」という趣旨の表明をしたにも拘わらず、実態は必ずしもその意に沿うものとはならなかった。

 1997年12月答申ではあらためて教養教育軽視の危惧を指摘、その改善を求めた。また、1998年10月答申では教養教育を「学問のすそ野を広げ、様々な角度から物事を見ることができる能力や、自主的・総合的に考え、的確に判断する能力、豊かな人間性を養い、自分の知識や人生を社会との関係で位置づけることのできる人材を育てる」ものとし、専門教育と教養教育の有機的連携の重視を謳っている。

 さらに2000年11月答申ではグローバル時代に求められる教養として、「①高い倫理性と責任感を持って判断し行動できる能力、②自らの文化と世界の多様な文化に対する理解、③外国語によるコミュニケーション能力、④情報リテラシー、⑤科学リテラシー」を挙げている。

 大学審議会が中央教育審議会に再編統合されて以降、2002年2月中教審答申「新しい時代における教養教育の在り方について」では、「大学の学部は教養教育と専門基礎教育を中心とし、統合された知の基盤を培うことを目指した教養教育の再構築が必要」とした上で、教養教育の理念の明確な提示、教養教育の責任ある実施体制の確立、社会・異文化との交流の促進等の施策を掲げている。

 2005年1月中教審「我が国の高等教育の将来像」においても、学士課程教育は教養教育と専門分野の基礎・基本を重視すべきとし、また各大学が緩やかに機能分化することを求めた上で、7つの機能類型の一つとして「総合的教養教育」という類型を示している。

 このように一貫して教養教育の重視が強調される中、国公私立を問わず多くの大学で教養教育の再構築に向けた取り組みが進んでおり、教養やリベラルアーツを前面に掲げ、個性化を図る大学も増えつつある。

教養教育が重視される背景

 このように、近年になって教養や教養教育が重視されるようになった背景として、以下の5点を挙げることができる。

 第一は、社会が急速に変化し、解決すべき課題も高度化・複雑化する中で、先端的な専門知識もさることながら、その土台を形成する確かな基礎力、幅広い視野、豊かな人間性などが従来以上に強く求められるようになったことである。

 第二は、グローバル化が進展する中で、自他双方の文化を理解した上で、自らの立ち位置を定め、国や民族を超えて広く対話・交流できる人材の養成が急務となってきていることである。

 第三に、高等教育のユニバーサル段階化に伴い、学生の能力のバラツキが拡大し、価値観も多様化する中、基礎学力の強化を含めた教養教育の再構築が差し迫った課題となってきたという状況がある。

 第四に、大学間競争が激化し、個々の大学の特色や存在価値が問われる中、差別化戦略として教養教育の重視を打ち出す大学が増え始めたという事情もある。

 第五は、高等教育の内容が質・量の両面で高度化・増大する中、中教審答申が示すように、専門教育は大学院、専門基礎教育・教養教育は学部段階という機能分担が一つの方向になりつつあることである。

教養の意義・目的の再確認

 教養の意義・目的を再確認するにあたり、教養教育と混同されがちの「一般教育」と「リベラルアーツ」についてそれぞれの概念を整理しておきたい。舘昭桜美林大学教授は、一般教育は専門教育に対置される概念であり、特定分野に偏らない幅広い知識の教育を意味し、リベラルアーツは労働からの拘束を受ける職業技芸に対置される自由な技芸であると説明する。

 次に、教養教育によって培われるべき「教養」について、その定義を確認しておく。

 辞書上、教養は「①学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。②社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。」(大辞泉)と説明されている。

 また、2002年2月中教審答申では、教養を「個人が社会とかかわり、経験を積み、体系的な知識や知恵を獲得する過程で身に付ける、ものの見方、考え方、価値観の総体」であるとしている。

 教養の定義自体については専門家に委ねるとして、本稿ではこの2つの説明も踏まえつつ、企業と大学の両方における筆者自身の経験も踏まえ、教養の意義・目的を再確認する。

【リーダーの権威や指導力の裏づけとしての教養】

 歴史的視点から社会の形成を見てみると、社会の中に支配する者が現れ、支配と被支配に分化していく過程で支配する者の権力の源泉となったものは武力であり、それを背景にした経済力であった。その後、社会が安定し高度化するに従って、支配者・支配層は指導者・指導層にその位置づけや役割を変えていくことになるが、その指導者・指導層の権威や指導力の裏づけとなった重要な要素の一つが教養であったと考えられる。

 近代になってからも高等教育がエリート段階であった時代は、大学は明らかに社会の指導層を育成する場であり、企業においても官庁と同様に大学卒業者は幹部候補として処遇・育成された。高校卒業者との違いは大学で学問をしてきたかどうか、言い方を変えると教養を身に付けてきたかどうかということになろう。学歴のみで二分することに疑問も感じてきたが、学問や教養が組織内でリーダーとして遇され、力を発揮するための裏づけとなっていたのは事実である。

 大学がマス段階からユニバーサル段階に進むのと併行して、企業においても機械化や多能工化が進み、組織構造もピラミッド型からよりフラットな構造に変化してきた。リーダーの指示と業務手順・作業標準に従って進められる仕事から、少数精鋭化の中で一人ひとりの自律的な判断・行動や創意工夫がより求められるようになってきたのである。

 このような変化は特定の企業内だけにとどまるものではなく、産業構造の変化と相俟って我が国の社会全体に生じている。大学がユニバーサル段階に移行し教養教育の再構築が求められているのと同様に、社会の変化の中で教養の意義・目的もあらためて問い直されるべきなのである。

【教養は人間としてより良く生きるための基盤】

 それでは、新たな時代に相応しい教養とはどのようなものなのか、その意義・目的について考えてみたい。

 抽象的な表現になるが、「教養はすべての人々が人間としてより良く生きるための基盤をなすもの」という考え方を基点に据えるべきではなかろうか。その上で、「人間としてより良く生きる」ための3つの要素を以下に示すことにする。

 一つ目は、自立した個として、様々な問題を上手に解決しながら、自己を成長させるということである。ここでいう問題とは、自らが掲げた目標、自らが発掘・設定した課題、人生の中で直面する困難などを含む幅広いものである。

 二つ目は、社会の一員として、社会の恩恵を感じながら生きるとともに、積極的に社会に貢献するということである。他者との交わり、組織やコミュニティの構成員としての活動、民主主義を支える市民としての行動などがその要素となる。

 三つ目は、自然を探求し、人々が創りあげてきた文化に親しみ、研ぎ澄まされた感性で自然と文化を感じるということである。学ぶことによって感性が磨かれ、感動が深まる。その逆に感動が学習を促し、学習の質を高める。その相互作用が、精神生活をより豊かなものとし、文化の質を高めるのである。物質文化の発達が地球の許容力を超える事態が差し迫る中、豊かさの重心を精神文化の側によりシフトするためにも、この相互作用は大切である。

教養教育において培うべき能力・素養

 以上の3つの要素を成り立たせるために、いかなる能力・素養を身に付けておくべきであろうか。

 学生から進路選択について助言を求められた時は、「自分自身を人間としてトータル(総体)で評価してくれ、トータルで成長させてくれる職場を選んだらどうか」と答えるようにしている。

 社会のどのような仕事でも大まかな業務分担はあるものの、新たな課題に取り組んだり、予期せぬ問題の解決に苦心したりの連続である。

 会社の組織改革を担当しながら、韓国人徴用工訴訟という戦後補償問題に携わったことがあるが、日韓関係に関する文献を読み、識者の意見を聴き、社内外の多くの関係者の協力を得て解決まで漕ぎ着けた。自身の人間観・歴史観・異文化理解などを含む全人格が試されるような経験であった。

 このケースに限らず、特定の知識やスキルだけでは解決し得ない大小様々な問題に人間は向き合うことになる。それが人間トータルとしての成長につながるのである。

 前述の3つの要素を成り立たせるための能力・素養を、この人間トータルという概念と自身の経験に基づき整理すると、以下の5つになる。

  • 様々な事象を感受し、その軽重を判断し、ものごとの本質を見抜く力。直観力なども含まれる。
  • 根本に遡って考え、知識や経験を通して得た方法に基づき、筋道を立てて問題を解決する力。
  • 興味・関心を幅広く持ち、積極的に新たな知識を獲得し、柔軟性をもって思考・行動できる力。
  • 人間と社会と自然の関係を理解し、他者を思いやり、社会との関わりの中で自らを考え、自然を尊ぶことのできる力。
  • 真善美を追求しようとする態度。その大部分は上記4つの力を培う過程で育まれるものである。

 このような能力・素養は、大学における学修だけで培われるものではないし、卒業後の社会における様々な経験の方がはるかに大きな意味を持つことは言うまでもない。

 しかしながら、冒頭に述べたように社会自体が様々な難題を抱え混迷の度を深めている。人材育成に大きな役割を果たした企業の多くが、時間をかけて人を育てるだけのゆとりを失いつつある。

 このような事情から、大学はこの5つの能力・素養の土台づくりにより大きな力を注ぐべきであり、そのことが従来以上に重要な意味を持ち始めたのである。

大学における教養教育の再構築とそのための施策

 大学においてこの5つの能力・素養を培うのは、いわゆる一般教育だけではない。専門基礎を含む専門教育や課外活動を含めた総合的な教育体系の中で育まなければならない。むしろ、法学におけるリーガルマインドや経済学的思考、理系分野の実験・解析方法など、専門教育の中で学問の方法が身につき、思考法が磨かれることの方が多いのではなかろうか。

 しかしながら、専門教育においては一方で細分化、他方で複合化が進み、それぞれが深化する傾向にある。知の構造化や専門基礎教育の重視があらためて指摘されるのもこのような状況を受けてのものである。ただ、専門基礎科目は専門科目を学ぶために必要とされる合目的的なカリキュラム編成にならざるを得ない。興味・関心の幅を広げ、人間・社会・自然を考究する中で、自身が学ぶ専門分野の意義を理解し、自分自身の現在や将来を考えるためには、専門に拘束されない自由な学びの機会が不可欠である。

 そのための教育を狭義の「教養教育」と呼ぶことにする。問題はそれをどのような方針と体制の下で実施するかである。かつての教養部や一般教育課程に戻ることは考えられない。また、大綱化以降多くの大学で採られた全学委員会体制による推進には、学部や教員の意向が優先されがち、責任の所在が曖昧、などの指摘がある。

 本誌でも北海道大学の「全学教育」や信州大学の「全学教育機構」などの取り組みを紹介したが、まずなすべきはそれぞれの大学が教養や教養教育の意義を再確認し、どのように教養教育に取り組むか、その理念・方針を明らかにすることである。その上で、例えば、教養教育は全学教育として大学本部が責任を負い、専門教育は学部が責任を負うという役割分担を明確にするのである。この場合、専門基礎教育をどう取り扱うかは議論の分かれるところであろう。

 仮に専門基礎教育は学部に任せたとして、大学本部は教養教育に責任を負い、その実施体制として「教養教育機構」のような組織を置く。学長または教育担当副学長をトップにして、教養教育に対する取り組み姿勢を学内外に明示することが望ましい。

 さらに試案であるが、機構長の下に委員会を設置し、学内教員の他、広く学問全体を俯瞰できる学外教員や社会経験豊かな有識者を加えてみてはどうだろうか。学部の事情や専門分野の論理にとらわれることなく、多面的な視点からより望ましい教養教育の体系を構築するのである。当然、カリキュラムの編成も委員会の検討を経て、機構が責任を持つことになる。

 その上で、北海道大学が全学教育の実施において掲げた「最良の専門家による最良の非専門教育」の方針に則って、それぞれのカリキュラムを担うに相応しい教員に科目担当を要請するのである。学内教員が担当しない科目は、他大学・機関などから非常勤教員を招聘して対応する。教養教育を担当する教員にそれに相応しいステータスを与えれば、学部や個々の教員の協力も得られるであろう。

 教養教育を担当する教員には、自身の研究テーマを超えて当該分野の体系、最先端の成果、その分野の学術的・社会的意義などを学生に伝えることを期待したい。また、学識と社会における実務経験を兼ね備えた優れた人材を非常勤講師として積極的に活用することにより、学問と社会の関係をより的確に伝えることもできるであろう。

おわりに

 大学は大学が実施する教育全体についてその質や成果に責任を負わなければならないが、専門教育については実質的な責任を学部に委ねているのが実情である。一方で、既述のとおり、教養教育は大学本部の責任により進められるべきである。さらに述べるならば、教養教育にこそ大学の見識や意気込みが示され、個性や特色も表れるのである。

 大学本部主導の下、新たな教養教育を構想し、その実現に向けた取り組みを通じてそれぞれの大学の競争力を高めることができれば、我が国の高等教育全体の質もさらに高まるのではなかろうか。



参考文献
舘昭『原点に立ち返っての大学改革』東信堂2006年
木谷雅人「大学審の教養教育−審議の解説」『IDE』No.426(2001.2-3月号)



(吉武博通 筑波大学理事・副学長 大学院ビジネス科学研究科教授)


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