大学を強くする「大学経営改革」[21] 学術と社会の将来を見据えた大学教員論の確立を 吉武博通

数少ない大学教員論

 大学改革の究極の目的は教育研究の質を持続的に向上させることのできるシステムを確立することである。真の改革には大きなエネルギーが必要であり、現場を中心に混乱が生じることは避けられない。それ故に、目指す姿を構成員・関係者に明示し、広く認識を共有しつつ、期限を区切り短期・集中的に組織・制度改革や意識改革を成し遂げて、地道な改善活動が息長く継続される状態を早期に実現しなければならない。

 そのような観点から現在までの大学改革の取り組みを振り返った場合、教育研究の直接の担い手である大学教員のあるべき姿を描き、それに向けて組織・制度を含む様々なシステムをどのように再構築するべきかの議論が必ずしも十分ではなかったように感じられる。確かに任期制やテニュア・トラック制、評価、FDなどに関する議論は盛んであり、各大学で様々な取り組みが行われている。しかしながら、大学職員論の活発さに比べ、大学教員のあり方それ自体を正面から捉えかつ総合的に論じる機会も少なければ、それを論じた文献も少ないというのが率直な印象である。

 一方で、大学のトップマネジメント層や職員による「大学教員が変わらないことには」という発言を様々な場で見聞きする。同様の感想を漏らす教員も少なくない。それにも拘らず、理論と実践の両面から、あるべき大学教員の姿とそれを実現するための施策が十分に論じられてこなかったのは何故なのか。その理由を検討するところから本稿を始めたい。

大学教員論が十分に論じられてこなかった理由

 正面から大学教員のあり方を論じることが、必ずしも十分に行われてこなかった理由として以下の諸点が考えられる。

 最初に指摘すべきは学問の自由との関係である。何物にも拘束されない自由な発想に基づく学術研究を尊重すべきである以上、大学教員を一定の型にはめる可能性のある大学教員論は慎重であるべきとの抑制が働いていると考えることができる。

 2つ目は大学における学問分野の多様性である。学問分野ごとに教育研究の方法、評価の仕方、求める教員像なども異なる中で、大学教員を一括りにして論じることの意義はあるのか、一律論に陥った場合には却って有害ではないのかという疑問もあるであろう。

 3つ目は教授会自治に関するものである。大学教員について論じる場合、人事のあり方への言及は避けられないが、それは教授会自治の下で検討されるべき事項であり、理事会や大学当局が関与すべき事項ではないとの認識は依然として根強い。ここで留意すべきは、教員の採用・昇任などの個別人事事項と、大学として如何なる教員人材を求めて育成するか、そのためにどのようなシステムを整備するかという問題を峻別する必要があるということである。

 4つ目は印象論の域を出ないが、大学教員は特別な存在という意識に関するものである。大学教員こそ最も指導的な立場にあり、そのあり方を論じることなどもってのほかという意識が大学教員の根底にあるのではなかろうか。個別に接するとそのような意識を持たない教員の方が多いように思われるが、教員組織を覆う意識風土の中にそのような要素が色濃く残っていると見ることはできる。

 これらの要素を背景として、正面からの大学教員論が避けられてきたものと考えている。しかしながら、教育研究の質が教員の力量とその仕事の質に最も大きく依存していることは明らかである。また、大学の競争力や個性化が問われる昨今において、どのような教員を配置・育成していくかは個々の大学にとって最も重要な課題であるはずである。

 上述の4つの理由のうち、最後の点を除くとそれぞれに本質的な問題を含んでいる。従って、本テーマを論じるにあたっては、学問の自由、分野の多様性、教授会自治等を十分に考慮した上で、関係法令の趣旨、関連諸制度に関する歴史的経緯、諸外国の動向等広範な考察に基づく精緻な議論の組み立てが必要である。

 筆者はそのような組み立てができるだけの十分な知識を持ち合わせていないが、企業と大学の両方の実務経験に基づく一考察としての大学教員論として、率直な感想を交えつつそのあり方を述べることにする。

大学教員に期待される役割とは何か

 寺崎昌男氏はその著書『大学改革 その先を読む』(東信堂2007)で、「高等教育研究先進国のアメリカといえども、大学教員とは何かを考え始めたのは、そんなに古くはない」と述べた上で、E・L・ボイヤーのスカラシップ論を評価し、その要旨を解説している。

 ボイヤーは教授の仕事として、

  • 発見の学識(scholarship of discovery)
  • 統合の学識(scholarship of integration)
  • 応用の学識(scholarship of application)
  • 教育の学識(scholarship of teaching)
という4つの機能を挙げている。スカラーとは優れた研究を行うと同時にその成果をわかりやすく学生に伝えることを任務とする者を意味する。スカラシップを中心に据えたボイヤーの説明は大学教員のあり方を考える上で極めて示唆に富むものであることから、この4つの機能のそれぞれについて、寺崎氏の説明を参考にしつつ、あるべき姿を検討していくこととする。なお、本稿ではボイヤーのいう教授の機能を大学教員の機能と同義とみなして論を進めることにする。

【発見の学識(scholarship of discovery)】

 最初は「発見の学識」であるが、そこでは研究成果のオリジナリティとインパクトが問われることになる。インパクトには学問の進展への寄与度と社会への影響度の両面がある。査読付学術誌に掲載された論文数、被引用数、受賞歴等がそれらを推し量る客観データとなる。4つの機能の中でこれまで最も重視されてきた機能であり、教授会が人事権を有する最大の根拠の一つでもある。

 ここでの課題は、採用や昇任にあたって教授会が如何に公正かつ的確に研究成果の評価を行い得るかという点である。現在のように学問分野が細分化され、様々な学会が設立され、学部・研究科の側も学際的な性格を有したものが数多く設置されると、ピアーによる厳正な評価をどのような形で担保し得るかが極めて重要になってくる。教員組織の編成や評価のあり方に関わる問題として後述する。

【統合の学識(scholarship of integration)】

 次は「統合の学識」であるが、ボイヤーは自分の専門の枠を超えて隣接領域・関連領域・境界領域についての見識を持つことを求めている。

 例えば、経営学を例にとると、経済学・法律学・社会学・心理学など隣接・関連領域にまで目配りができている教員とそうでない教員とでは学生や実社会に与えるインパクトに大きな差があるように思われる。

 閉じられた専門領域の中でオリジナルな研究成果を出そうとするあまり、さらに狭い領域に閉じ篭り、それをより深く掘り下げることで他との差別化を図ろうとする。そのことが学問の深化・発展につながることもあるが、当該教員やその周囲の狭いコミュニティの自己満足だけで終わることも少なくない。

 一方で、理学と工学、医学と工学、農学と医学など従来の学問分野を超えた連携が進みつつあることにも目を向けなければならない。特に工学は産業界の技術革新と構造変化に連動するように学問の枠組みや内容が変化・流動化する傾向にある。そのために、東京大学は「知の構造化」と称して工学分野の学問体系の再構築に取り組んでいる。

 知の構造化が必要なのは工学分野に限らない。専門領域の細分化や学際融合型の教育研究への取り組みにより、新たな体系の構築が必要な学問分野も少なくない。効果的に知を創出するためにも、その成果を学生や社会に分かり易く伝えるためにも、知の構造化が不可欠である。

 ボイヤーのいう「統合の学識」にはそのような含意もあると考えるべきではなかろうか。

【応用の学識(scholarship of application)】

 応用という場合、大学で生み出された技術を産業界に移転するなど、大学から社会へという一方向的なものを想起しがちだが、ボイヤーが考える応用には、現場にある問題を発見し、それを持ち帰って自分の理論をさらに豊かにするといった力も含まれる。理論を現場に適用し、現場の問題から理論を検証・再構築するといったサイクルを回すことにより、知のスパイラルアップが可能になるのである。

 臨床という現場を持つ医学はその典型といえる。社会科学や工学・農学は産業を含む社会との関わりなしには成り立たないはずである。また、理学については、実験・観察・観測を通して自然現象という現場と理論を結び付けていると考えれば、大学における研究の中に理論と現場の両方が存在することになる。人文科学にとっての現場とは何か。哲学的な問いになるが、人間自身、そして人間が作り出した社会・文化・歴史が現場と考えるべきであろう。それらに対する飽くなき探求心と慈しみの心があってはじめて現場が発する情報を的確に読み取ることができるように思う。

 応用の学識は今後一層重視されなければならないが、このような学問分野ごとの特質を十分に考慮しながら、ボイヤーが期待する姿に近づける努力を重ねる必要がある。

【教育の学識(scholarship of teaching)】

 ボイヤーは自分の研究テーマだけを教えるのではなく関連領域を十分に理解した上で教育することを求めている。これは統合の学識が意味することと重なり合う。

 このことを含め、教育の学識が意味するところを、我が国の大学教育の現状と課題に即して考えてみると、「学生がいかなる知識・能力を身につけるべきかを理解した上で、それに相応しい内容をより効果的な方法で教授すること」と定義することができる。

 このような学識を有する教員を如何に増やしていくかが、我が国の大学教育における最大の課題であることは言うまでもない。そのためにこそ、教育の学識を含む4つのスカラシップを有する真のスカラーの育成に正面から取り組まなければならないのである。

真のスカラーをどのように育成するべきか

【大学院教育から大学教員採用までのプロセス改革】

 最初に考えるべきは大学教員の養成機能をも担う大学院教育のあり方である。

 現在の大学院生、とりわけ博士後期課程の学生についていえば、狭い専門領域、単一の研究テーマ、少数の限られた人たちとの接触という環境で大学院生活を送っているケースが大半ではなかろうか。確かに指導教員の下で専門性の深化を図ることは不可欠であるが、学士課程・修士課程修了後に社会に出た者は、同じ時期に、多くの人々に囲まれ、様々な課題に取り組みながら、職業人として人間としてトータルで鍛え上げられていく。興味・関心や視野の広がり、思考の柔軟性、対話・対人能力等で差が生じる可能性は高い。

 このような認識に立って、大学院における教育環境自体を抜本的に見直さない限り、スカラーとしての大学教員も、民間・公的セクターなど実社会で活躍する博士取得者も育て上げることはできない。大学教員の学識の基礎を作るのは大学院である。4つの学識の視点から大学院の教育やその環境を再構築する必要がある。

 次に考えるべきは大学教員の採用のあり方である。教授会がその人事を行うことを前提にした上で、上記4つの機能を踏まえて大学としていかなる教員人材を求めるかの認識を、専門分野に拘らず、大学全体で共有し、予め明らかにしておくことが望ましい。その上で個々の能力・資質・業績は教授会の責任で判断するのである。そうすることで、教員人事に関する大学本部と教授会の関係をより明確にすることができる。また、採用直後に全学の新任教員が一堂に会する場を設定し、大学トップが直接に大学の目指す姿や理念、大学教員に期待することなどを語りかけることも大切であると思われる。

【人事・育成を考えた教員組織の編成・運営・評価】

 前段で教授会に言及したが、教員の人事や育成に責任を負う基本となる教員組織をどの単位とするかは極めて重要な問題である。

 舘昭氏はアメリカのアカデミック・デパートメントに相当する組織(日本の場合は学科がそれに相当)を基本とし、そのデパートメントの設立根拠をディシプリンに置くべきと主張する。専門分野を同じくし、当該分野に固有の規律・方法を共有する教員組織が学士課程と大学院の教育研究に責任を負うとともに、教員人事を自律的に行うのである。筆者もこれが最も望ましい形であると考えている。

 その上で、この基本組織を教育研究の質の向上が持続する、健全で活力ある組織として運営していかなければならない。自治の名の下に全てを民主的といわれる方法に委ねていても、実際は順送りで組織の長が選任されたり、少数の有力教授で実質的な決定がなされたり、些細な事項まで会議に付議したりと、誰のためにもならないような運営が行われているケースは少なくない。

 企業組織は社長を頂点とするヒエラルキーであるが、民主的といわれる大学よりも現場や若手の活力がはるかに勝ると感じることが多い。自治や民主的という大学固有の価値観を重視しつつ、効率性と現場活力・若手育成にも配慮が行き届いた組織運営を如何にして実現するか、あらためて検討すべきである。

 教員組織における人事の適正性、運営の健全性、活力の維持・向上等を担保・促進する重要な手段の一つが組織評価である。評価というと教員個人の評価が最初に想起されるが、これからの大学はシンプルだが実効性の高い組織評価システムを確立すべきである。

 詳細は別の機会に譲るが、大学として教員組織に期待することをあらかじめ明確にし、組織の長と組織全体がそれをどのように実現しようとしているかを、例えば年に1回、客観的データと報告書、学長と組織の長との直接対話により確認するのである。より重視すべきは後者の直接対話である。学長または副学長が若手教員を含めた教員組織の構成員と懇談するのも有効である。

【専門を超えた交流・協働の促進】

 ボイヤーのいう統合の学識をより豊かなものとするためには、教員が教員組織内で他の教員とより活発に交わる環境を作ることと、専門分野を超えた交流・グループ研究を促進する仕組みを整えることが必要である。前者は教員組織の責任で行うべきであり、そのことも組織評価の視点の一つとすべきである。後者は大学本部が責任をもって全学的に制度・環境を整えることが望ましい。

 もう一つ重要なことは、分野を超えて教員同士が気軽に交流できる場を数多く作り出すことである。教員が互いの関心や研究テーマを知ることができる情報インフラ、個々の教員やグループの研究活動を知らせる学術広報誌、ファカルティクラブのような交流施設、教員が集まる様々な催しなどが主たる手段になるであろう。当面の利用者・参加者の多寡にとらわれず、教員同士の交流を重視している姿勢を大学が絶えず示し続けることが重要である。そのようにして交流を基調とする新たな学内文化を根付かせていかなければならない。

大学改革には大学教員論が不可欠

 大学教員は企業など一般の組織構成員と異なり、それぞれが自立した存在であると言われることが多い。また、自治や民主的プロセスが金科玉条である。

 しかしながら、多くの教員と接して自立とは何か、自治・民主は本当に教員のためになっているのだろうかという疑問を感じることの方が多い。一人で苦労したり悩んだりしている教員も少なくない。企業ならば周囲がサポートするはずと思うこともある。

 教条主義を捨て、大学教員とは何かをあらためて考え直し、教育研究に存分に力を発揮できる状況を作り上げる。それを避けていては大学を変えることはできない。


  • 参考文献
    寺崎昌男『大学改革 その先を読む』東信堂2007年
    舘昭『改めて「大学制度とは何か」を問う』東信堂2007年


(吉武博通 筑波大学理事・副学長 大学院ビジネス科学研究科教授)


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