12年連続関西志願度トップをもたらした「学の実化」を具現化する成長戦略/関西大学
関西初の法学校からブランド力トップ校へ
関西大学の発足は1886年。明治政府が法治国家たるべく、国会開設、憲法制定等に奔走していたころである。12人の創立者による関西初の法律学校であり、フランス法学を教授した。同じくフランス法を教授する法政大学や明治大学とは、司法省のお雇い外国人ボアソナードの薫陶を受けた者達が創立者であったという点で同門である。
1922年に大学令により法学部、商学部を持つ関西大学となった。この時、総理事兼学長であった山岡順太郎により定められた学是「学の実化(じつげ)」(=学理と実際との調和)は、現在に至るまで関西大学が掲げるミッションであり、大学の進路を示す北極星である。
本1958年に工学部を設置したことで、文理双方の学部を持つ総合大学になり、現在では13学部13 研究科3専門職大学院、そこに3万人強の学生を擁する大規模大学となった。
加えて、「進学ブランド力調査」において調査を開始した2008年から2019年まで12年連続で、関西地区の志願度第1位をキープしている。押しも押されもせぬ安泰大学に見えるが、大学内部からすれば、決して平坦で順調な発展の物語ではなかった。
バンカラ大学からのイメージ転換
日本の大学が、学内からの改革に真剣に取り組むようになったのは、1990年を境にしてのことといってよい。規制緩和政策の中で、大学の自主裁量の拡大とともに評価が導入されるようになったという高等教育政策の変化があったことは一つの要因だが、それとともに、大学をとりまく環境の大きな構造変化があったことを忘れてはならない。即ち1992年をピークとする18歳人口の急減、バブル経済崩壊後の大卒労働市場の縮減という構造変化の中で、大学はもはや安定成長産業ではありえず、サバイバルの方策を考える必要に迫られることになったのである。
今から振り返れば、関西大学にとっても、このころが現在に至る改革の契機であった。1994年には、1967年に社会学部が開設されて以来の新学部、総合情報学部を、これまでの千里山キャンパスとは別の高槻キャンパスに開設し、2キャンパス体制とした。「情報」という名を冠する学部の設置も関西では初である。まだ、インターネットも普及していないころであるが、「情報」は技術的観点からも社会的観点からも、これからの社会の鍵になると見越して、文理をまたぐ総合型カリキュラムを工夫して出発した。
また、関西地域は1995年に阪神・淡路大震災によって大きな被害を受ける。関西大学にとっては、それは大学のキャンパス整備に拍車をかけることになり、これまでにないコンセプトによる建物が整備され、装いを新たにした。これは結果的に、女子学生の誘因となり、これまでの男子中心のバンカラというイメージを拭うことになった。関西大学には元気で積極的な女子学生が多く、全体として大学は活気づいたという。
2000年代の学部改革、併設校拡大
2000年代に入ると学部の新設・改組という形での改革が相次いだ。専門職大学院の制度化を受けた2004年の法科大学院の設置を皮切りとして、それからおよそ10年、図表1に見られるように、毎年のように学部・研究科の新設や改組、併設学校の設置が行われている。
いくつか、経緯を示そう。2007年に工学部を、システム理工学部、環境都市工学部、化学生命工学部の3学部に改組したのは、当時1学年1000人を超える大規模な学部になっており、そのため関西大学の工学部の特色は何か、そこで何を学ぶことができるのか、次第に大学の外部からは分かりにくくなっていたからである。そこで、特色ある3学部に分割することで、高校生には見えやすくなり、例えば、環境都市工学部では都市デザインコースや、化学生命工学部の生命・生物工学科等において、女子の人気が高まった。
2009年開設の外国語学部は、もともとは全学の外国語教育を担う外国語教育研究機構として2000年に発足しており、そこに2002年に外国語教育学研究科として大学院を設置したという前史がある。大学院だけだと学生数も限られる。学部から大学院へというルートを確立すべく、外国語学部を開設したのである。当時は、国際系の学部の人気が高まっていた中、1年間の留学を必修とする外国語学部は、小規模ながら人気学部となって現在に至っている。
併設学校の拡大も特筆すべきであろう。もともと、戦後の早い時期に幼稚園、第一中学校、第一高等学校を設置していたが、その後は長く拡大の機運はないままであった。それが、2000年代に関西大学北陽高等学校、北陽中学校を加え、さらに関西大学初等部・中等部・高等部も開設したことによって、幼稚園から大学・大学院までが接続する一貫教育が可能となった。
こうした学部や併設学校の新設・改組は、当然ながらキャンパスの拡大につながる。伝統ある天六の夜間部と千里山、そして千里山と高槻の2キャンパスを経て、現在は高槻ミューズキャンパス、堺キャンパスを加えた4キャンパスになっている。その他にも留学生別科を置く南千里国際プラザ、社会人教育を展開する梅田キャンパス、さらに北陽中学校・高等学校が設置されている北陽キャンパスがあって、文字通りマルチキャンパス体制となった。
18歳人口の減少が本格化するこの時期に、学部・大学院生は2001年の約2万9000人から2018年の約3万1000人に、教員は500人弱から700人弱に、これらに伴う土地・建物の増加もあって、資産は1500億円弱から、2300億円弱までうなぎ上りに拡大した。拡大路線による改革が、盤石の経営基盤を作ったということができよう。
競合する同志:関関同立
関西の私学は「関関同立」に代表される。予備校が考案したといわれるこのフレーズは、既に1970年代には世間に定着したそうである。現在では、この4大学大学院間での単位互換制度が作られ、また、毎年2回、4大学の学長懇談会を開催するようになって15年ほどになる。こうした、実質的な交流の中で、相互に情報を共有し、刺激を与え合い、切磋琢磨しようとしているのだそうだ。
面白いエピソードを聞いた。現在に至る大学改革の先陣を切ったのは立命館であった。今でこそ当たり前になった地方入試であるが、立命館大学が本腰を入れて地方入試を始めたとき、周囲の大学はそんなものかと横目で見るようなスタンスをとっていたが、数年後には喫緊の課題と受け止め、同じように地方入試の本格展開を始めた。また、関西大学が外国語学部を設置する際には、2000年に開学したアジア太平洋立命館大学に大いに刺激を受け、学ぶところが多かったという。
また、同志社大学や立命館大学は、2006年に附属小学校を設置し、大学・大学院までの一貫教育体制を敷いた。関西学院大学の初等部の開設は2008年である。関西大学もこうした動きに大きな刺激を受けた。2010年の初等部の開設の背景には、ライバルの動きがあったのだ。
関西大学の2000年代の大学改革は、決して関西大学だけのものではなく、関関同立に共通しており、それぞれが競ってスケールアップした。お互い、競争相手であり、同志なのだ。関西大学のブランド力も、こうした過程の中で作られてきたといってよいだろう。
スピーディな意思決定のための学内行政効率化
ところで、これだけの規模拡大を遂げると、学内の意思決定を図ることは容易ではなくなる。しかしながら、迅速な意思決定のもとでのスピーディな改革は益々求められるようになる。そこで、学部の新設・改組が始まる2006年ころから、学内行政手続きの効率化の議論を重ねた。2008年に、教育推進部、研究推進部、社会連携部、国際部の4部による教学マネジメント体制を整え、それぞれの部長を副学長が担当することとした。教育推進部には4名、国際部には5名の専任の教員が置かれた。また、研究推進部には8名のURAが配置されている。社会連携部には、産学官連携センター、高大連携センター等7つのセンターを置き、それぞれにセンター長が置かれるとともに、必要に応じて副センター長やコーディネーターが置かれた。
各部にそれぞれ専門性を有する人材を専従で配置したことで、専門性と独立性が高くなり、中長期的な視点でもって議論し、方針を定めることができるようになった。これら4部はそれぞれ意思決定機関として位置づけられている。従って、その審議結果の大半は、学長のもとにある学部長・研究科長会議に対して「報告」すればよい。専門的見地からの審議結果の説得性は高く、学部長・研究科長会議で紛糾することも少なくなった。
もちろん、この4部は事務組織と連動している。教育推進部には学事局が、研究推進部と社会連携部には、研究推進・社会連携事務局が、国際部には国際事務局が事務組織としてバックアップする体制が構築されている。事務組織に関して言えば、2009年には教務センターを設置した。これは、学部固有の事務、学部を横断する事務という二重の体制をスリム化し、事務手続きの煩雑さの軽減を図ることが目的であった。
話は前後するが、2008年には、学部長・研究科長会議の決議を案件によって3分の2決定としたことも注目に値する。多くは全会一致を旨としてきたこうした会議であるが、学部数にして13にもなると、容易に全会一致には到達しない。そこで、全教授会・全研究科委員会の全会一致ではなく、構成員の3分の2が賛成すれば、案件によっては決定できるというルールを敷いたのである。
「大学という組織は、リーダーシップという名を借りた恣意的な独裁は排除せねばなりません。異論があっても十分な議論を尽くしてメンバーが納得するという仕組みが必要です。他方で、大学は学部教授会の集合体としてだけ存在しているわけではありません。大学として進むべき方向を定めることは一層重要になっています。こうした中で生み出されたのが4部体制であり、3分の2決定なのです。とりわけ4部体制になって、改革施策の立案・決定・実行が捗るようになりました」と、芝井敬司学長は語る。学長のリーダーシップを求める一連の政策の中で、法的には学長や教授会の位置づけも変化しているものの、やはり一方でボトムアップを大切にしつつ、他方でスピーディな業務推進を行うという難しい舵取りをされていることが拝察される。
メッセージを打ち出す大学へ
学部増で規模拡大を続ける中、一般入試・センター利用入試の志願者は2007年入試で10万人を超えたものの、その後長く8万人台で推移した。2018年から、横ばいだった18歳人口が再度減少を始めることを考えると、うかうかしてはいられない。何とか脱却をと考えた芝井学長は、受験生に対して関西大学からの明確なメッセージを送ることにした。
その一つが、マーケティングである。法人全体の広報専門部会と一緒に議論し、“リケジョ(理系女)”で統一して打って出ることにした。各種の広報には“リケジョ”の写真を用い、関西大学がとりわけ理系の女子学生の育成に力を入れていることを高校生に伝えた。将来の社会にイノベーションを起こすには、私学でも一定規模の理系学部が必要であり、そこにもっと多くの女性が広く参画することでブレークスルーを生むに違いないと考えてのことである。これは、大学そのものを強くすることにつながる。
もう一つが、学長自らによる高校訪問である。高校によっては、学長が足を運んでくれたということに驚嘆するところも多く、高校や高校生の大学に対する好意的な見方につながるのである。これらが功を奏してか、ここ3年間で志願者は1万860人増加した。
関西大学が発信するメッセージはこれにとどまらない。芝井学長は、卒業生や社会人に対してもメッセージを打ち出されている。均質な学力を身につけ学位取得して安定した企業に就職して…といった型にはまることなく、自ら何かを起こす人材を育成したいと長く考えてこられた。こうした思いを2016年開設の梅田キャンパスに集結させた。関西大学起業資金支援制度も2018年に発足させた。この梅田キャンパス・ビルの2階には、スタートアップを考えている人と、それを応援したい人とが気軽に集まり、情報交換や相談ができるスタートアップカフェがあり、コーディネーターが配置されている。既に相談者数は2600名を超え、創業者数は50名に達した。3・4階は会員制の異業種交流サロンであり、会員数は500名を超えた。ここで構築された社会人や卒業生のネットワークは、スタートアップ支援にも活用する。そして6~8階は社会人の学び直しの場であり、大学院レベルの履修証明プログラムや公開講座を提供している。
幸いにも、梅田キャンパスで展開されている事業は好調である。これらは、大学に蓄積された知的資源と社会の各種資源の融合による新たな知の創出と見ることができ、今後の社会を変えていく原動力になるかもしれない。学部・学科という従来の枠組みによらない方法、かつ、これまでの18歳人口に限定されない新たな学生マーケットの開拓、その可能性も秘めている。これは、まさしく山岡順太郎の提唱した「学の実化(じつげ)」、即ち、学理と実際の調和を目指すことそのものであり、提唱から100年近くを経てもこの学是が将来の大学の在り方を支えている。
(吉田 文 早稲田大学 教育・総合科学学術院 教授)