DXによる新たな価値創出[5]ソーシャル・データサイエンス学部/ ソーシャル・データサイエンス研究科/一橋大学
一橋大学は2023年、ソーシャル・データサイエンス(SDS)学部とソーシャル・データサイエンス研究科(修士課程)を同時開設する。1951年に当時の法学社会学部を法学部と社会学部に分離改組して以来、72年ぶりとなる学部増だ。一橋がこのタイミングでデータサイエンス(DS)人材育成を強化するのはなぜか。また、ソーシャルを掛け合わせる狙いは何か。設置趣旨や背景について、理事・副学長(総務、研究、社会連携担当)の大月康弘教授、ソーシャル・データサイエンス教育研究推進センター センター長の渡部敏明教授、同副センター長の七丈直弘教授にお話を伺った。
伝統ある社会科学教育研究を次代に向けてアップデート
今回の新増設のコンセプトは、「社会科学とDS の融合」だ。一橋は社会科学の総合大学だが、変化が激しく予測不可能な現代・未来の課題解決に当たっては、社会科学「のみ」の視点では不十分であり、社会で蓄積される大量のデータを適切に用いて変化を把握することが必要となる。一方DS「のみ」でも不十分であり、データ活用の軸となる有意義な「問い」を立て、有効な「社会実装」を行うには、社会に対する深い造詣が必要となる。これまでの社会科学の良質な教育研究の蓄積を背景に、それをより社会実装する方向性でアップデートしようとするのが、今回の改革となる。
大月理事は、新学部の教育内容を「データに基づいて社会科学を学ぶこと」とまとめる。「今必要なのは社会の事象を専門的に理解したうえでツールとしてDS を扱い、イノベーションを牽引していく人材。本学はそこに真正面から取り組む所存です」。渡部教授も、「社会科学の専門家がデータを扱えるようになることで、これまで解決できなかった課題に対しても有効にアプローチできるようになり、新たな価値創造につながる」と補足する(図1)。
全学教育改革と並行して新学問の体系化に挑む
一橋は、経済学部を筆頭に、どの学部も入試における数学の配点比率が高い。数学を学んできた学生が多い基盤は、数的素養を前提とするDS修得には間違いなく有効に働く。
DS文脈における一橋の動きで言えば、文科省の「令和3年度数理・データサイエンス・AI教育プログラム(MDASH)リテラシーレベル」に採択された『AI入門』がある。これは2020年度から始まった全学共通教育科目で、AIやDSの原理や機能を概観し、それらを用いた問題解決の考え方や方法を身につける内容であり、開設当初から履修希望者が非常に多い。「ソーシャル・データの切り出し方を全学に行き渡らせるよう、全学共通教育科目『AI入門』を含むデータ・デザイン・プログラムがまず設計されました」と七丈教授は話す。
全学共通的なこうした動きもありながら、今回の改革は学部・研究科の設置である。共通教育としてレベルアップしていくことも選択肢としては考えられたであろうが、七丈教授は「既存学部の専門性ありきでDSを追加要素として掛け合わせるのではなく、DSとの融合をど真ん中に据えるには、やはりゼロベースの教育躯体を創る必要がありました」と話す。また、新たに構築する学問領域を体系化するために、学士課程と大学院課程を設置することは最初から構想に織り込まれていた。こうした教育体系を創ることで、全学教育改革におけるDSの拠点ができることにもなる。一橋は伝統的に学部間の垣根が低く、他学部乗り入れの履修の自由度が高い。SDSで体系化された教育も、全学共通教育科目を含め他学部に大いに波及することが期待されているという。
将来的な国際競争力の源泉への期待
今回の改革の背景には、一橋の次世代に向けた改革意識がある。「本学の中核は社会科学なので、社会や時代の変化に敏感に教育研究をチューニングするのは文化風土でもあります」と大月理事は述べる。2019年にはこれまでの人材育成実績と今後の構想が評価され、社会科学系大学として初となる指定国立大学法人の指定を受けた。指定国立大学法人構想では、「日本の社会科学の改革を牽引する拠点形成-グローバル・ウェルフェアへの貢献を目指して-」というビジョンのもと大学改革を行っていくことが示されている。今回の新増設はその構想に含まれる動きで、2022年度からの第4期中期計画にも明記されている。つまり、国際的に一橋が立てていきたいビジョンを実現するプランニングのひとつが、SDSなのである。
新増設の検討が始まったのは2018年頃だったという。そして前述したMDASH認定が2020年。同時並行的に新たな学問としての設計が進んでいったことになる。「既存の延長線上にない未来社会を見据えたとき、ブレイクスルーするための方策が必要です。本学はそれを、理系的アプローチであるDSと社会科学領域を掛け合わせることでひとつ提唱したいのです」(大月理事)。
社会のリアリティ重視で学ぶトランスディシプリンな教育
具体的な教育内容を学士課程から見ていこう。学士課程では「SDSのゼネラリスト養成」として、ビジネス領域・社会課題領域・DS領域それぞれの体系的な知識と、それらを融合させてビジネス革新と社会課題解決に対する方策を提案・実行できる能力を身につけることをディプロマ・ポリシーで掲げる。
4年間を通じてSDS科目と社会科学科目、DS科目(統計学、情報・AI、プログラミング)の3領域を体系的に学ぶカリキュラムが最大の特徴と言えるだろう。SDS科目では、1・2年次はSDS入門とその法・倫理を学ぶ必修科目が並び、3年次以降はPBL演習科目やゼミナール科目を履修する。学部として融合をうたうだけに、社会科学とDS が単に併存するのでは意味がない。「どう融合させるのか」が肝だ。そのキーになるのがこのPBL演習。これは企業や官公庁から派遣された人材による実データ分析演習で、社会連携担当である大月理事は連携先の開拓について、「外部からの連携希望は多く、本学の校友会である如水会もそのネットワーキングに大きく寄与しています」と話す。PBL演習科目は3年次の前期・後期に配置され、なるべく多様な業界と連携できるように配慮するという。渡部教授は、「演習で単に実データを扱うだけではなく、実際の業務に即した課題設定と分析そのものを経験できるようにしたい。疑似データを扱う方法もありますが、実データをきちんと扱えるプロセスそのものも大事だと考えます。DSの限界も知る必要があります」と述べる。企業や官公庁に提供してもらう実データには公開できないものもあるので、例えば、学生が指紋認証で入れる教室を作り、非公開のデータの利用をその教室内に限定する等の環境整備も必要になるが、いわゆるELSI(Ethical, Legal, and Social Issues)を含めてきちんと体験させることを重視したいという。あくまで大事なのは社会のリアリティというわけだ。
DSの専門性を軸にSDSのアプローチを学び、社会科学に応用して新たな示唆を得て課題解決につなげる。こうしたサイクルを3年次前期・後期に実践経験する中で、専門性が融合し、価値創出に結実していく。方法論の教授ではなく、体験によるメンタリティの獲得。七丈教授は、「複数の専門性を内包するマルチディシプリンではなく、それらが越境して作用し合うトランスディシプリンな状態を目指したい」と言う。目指すのは学生による創発である。
社会に開かれた大学院でSDSのスペシャリストを養成
修士課程では「SDSのスペシャリスト養成」をうたい、社会科学・DSの高度な知識を融合させ、ビジネスの理解・分析・革新や社会課題の理解・分析・解決を実行できる力や、それらが有機的に融合した学術領域に貢献できる研究能力を培う。学部教育を高度化した内容で、実践演習に加え研究観点のアプローチも学び、自ら設定した社会課題に対する修士論文を執筆する(図2)。事前教育プログラムとして、オンライン教材によるSDSブートキャンプも設計した。修士課程に入るに当たり、SDS に関する学力水準を揃えることが目的だ。学問としてSDSを体系化するため、2年後には博士課程も設置予定である。七丈教授は、「大学の中で閉じた学問ではなく、ドクターもストレート学生だけでなく、社会に一度出た後にももう一度学べるような開かれた大学院にしたい」と意気込む。「学部も研究科も、社会接点をたくさん作っていきたい。SDS は課題ありき、イシューオリエンテッドの学問なので、イシューの置き方、探し方、設定の仕方が肝になります。単なる知的好奇心だけではなく、社会課題、解くべき課題を対象にしたいのです」と渡部教授も補足する。
大学の横断融合ビジョンのフラッグシップ
「本学は学部間がフラットである特徴がありますが、それでも融合を実現するためにはゼロから作る必要がありました」と七丈教授は振り返る。学部の入学定員は60名に対して担当教員が純増で18名、しかも一人ひとりが専門家としての実力高い一騎当千とも言える布陣だ。学生は専門領域における最先端の理論と知見をフロントランナーから直接得ることができる。DSを学べる学部を創ったというより、社会科学の今後をうらなう横断融合というビジョン達成のための学部として配置しているのがポイントだ。
また、こうした教育体制は他学部への波及効果も期待されている。融合の核となるPBL等一部科目で受講条件はあるものの、SDS学部の科目の多くは他学部でも受講可能とし、各学部のDPの達成を棄損しないことを前提に副ゼミナールという形で他学部生も履修が可能なようにしたいという。
ソーシャルを学ぶうえでのレディネスを総合問題で問う
では、どのような学生に入学してもらいたいと考えているのか、入試設計の考えを聞いた。特に求めたい資質能力として、七丈教授は「社会に対して興味があること」「論理的思考能力」の2点を挙げた。それらを評価するための方策として、入学定員の半分に当たる30名を募集する一般選抜前期日程の2次試験では、総合問題という科目を課す。
これは社会において数理的なものの考え方を応用する力、情報技術の活用について自ら試行する姿勢を確認するための科目で、「論理的に文章を思考する」「提示されている情報を読み取れるグラフはどれか選ぶ」といった、「考え方」や「数の捉え方」を問う問題が並ぶ。これらはソーシャルを学ぶうえでレディネスとも言える素養だという。「提供された情報について、ロジカルに読み解き、合理的な推定を行えるかどうかが肝です」と七丈教授は述べる※。「SDSの学びは、社会課題解決志向を持つ学生が学ぶとより伸びていく類のもの。総合問題がそれに寄与するだろうと我々は考えています」と渡部教授も言う。
今回の新増設は産業界からは概ね好評で、多くの期待が寄せられているという。ただし、「啓発的な意味合いも含めてもっと裾野を広げたい」と七丈教授は気を引き締める。
SDSは国際的に見るといくつかの先例はある分野だという。しかし日本国内においてはそうではないため、SDSの体系化はこの分野の国際ネットワークにおける日本の拠点となり、日本にとって新しい分野を創るハブ機関となることが見込まれている。大学全体として進める国際化においても重要なロードマップであるのだ。グローバルアドミッションやリカレントニーズ等への期待も高い。
一橋としては、グローバルで見た時に新領域の国際的拠点となることを目指しつつ、大学としての他校にない差別化領域として立たせる新領域の体系化を進めていく、どちらの意味も担うものなのである。
(文/鹿島 梓)
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