リカレント教育最前線 [4]大阪大学 社会技術共創研究センター(ELSIセンター) 共創研究プロジェクト

一人ひとりが異なる志向を持つ社会人は、これまで同質性の高い18歳入学者に特化しその態勢を最適化してきた日本の大学にとって、「新たな市場・顧客」である。
時々刻々と変化する環境下、また各大学それぞれに経営課題も利用できるリソースも異なる中、社会人マーケットの開拓を目指す取り組みには「正解」や「定石」のようなものはないだろう。しかし、だからといって立ち止まってはいられない。
この連載では、それぞれの方法で社会人に向き合って試行と探索を行う先駆的な取り組みをレポートしていく。


大阪大学 社会技術共創研究センター センター長・教授 岸本氏


データビジネス、AI技術…最先端ビジネスの企業人と
人文・社会系研究者による共同研究でイノベーションの担い手を育てる

リカレント教育の手段としての共同研究

図 概要

 「僕は、ELSIは、リカレント教育として非常に適したテーマだと思っているんです」と話すのは、大阪大学社会技術共創研究センター(ELSIセンター)センター長・岸本充生教授。

 最新の科学技術が新たな商品・サービスとして提供される際の課題。その対応・解決に、さまざまな企業の実務家と「共創研究プロジェクト」を展開し取り組んでいる。

 ELSI (エルシー)とは、倫理的(Ethi cal)・法的(Legal)・社会的(Social)課題(Issues)の略称。新たな技術が社会に導入される際、そのままでは社会のルールにそぐわない場合がある。そうしたズレが事件や事故につながり、技術の推進が難しくなったり、社会にとって有益な用途が実現できなくなることも少なくない。これからの時代のイノベーションには、そうしたELSIをいち早く発見し、主体的に解決に取り組む人材が必要となる。大阪大学ELSIセンターは、実際の課題解決とともに、そのプロセスを通じた人材育成をもミッションの一つに掲げている。

 イノベーションの担い手の育成は、リカレント教育の目的の一つである。しかし、イノベーティブなテーマであればあるほど、教育プログラムとしての提供は困難だ。正規の学位課程はもちろん、履修証明プログラム、あるいはオンデマンドの動画であっても、プログラムを設計し確立するにはある程度の時間が必要となるからだ。では、ほかにふさわしいやり方はないのか?そう考えていた時出会ったのが、大阪大学ELSIセンターが実施する共創研究プロジェクトであった。その取り組みは、社会人の学習機会としてどのように機能しているのだろうか?


図表 大阪大学ELSI センターの主な共創研究プロジェクト


共同研究のプロセスを通じてELSI人材を育成

 「2014年、大阪駅の駅ビルで人流解析実験をしようとしたプロジェクトが『大炎上』し中止となった事件がありました。大阪駅の駅ビルの中に90数台のカメラを設置し、同じ人物がどういうルートをどう通るかデータを集めるという計画。個人は特定しないので問題にならないだろうと発表されたのですが、マスコミ報道から『自分も追跡されるのではないか?』と不安がられ、大問題になってしまったのです。

 後に外部の弁護士等で構成された検証委員会によるレポートが出たのですが、そこでの結論は『法的には問題はなかった、しかし、説明、広報といったものが圧倒的に不足していた』というもの。では、どうすればよかったのか。

 技術革新のスピードは速く、法律による対応は後追いにならざるを得ません。また、SNSの時代、社会の声も不安定で、予測は非常に難しい。そこで頼りになるのが倫理です。倫理というのは私達が拠って立つ規範のこと。もちろん、永久不変の真理というわけではありませんが、とりあえずは安定している。つまり、変化の激しい時代において、羅針盤とすることができるのです。

 データビジネスやAIにせよ、バイオ技術にせよ、最先端でビジネスに取り組んでいる人々にとって、何が問題になる可能性があるのか、どこは大丈夫でどうなると炎上してしまうのか、見通せない。大きなモヤモヤがある。そこでわれわれが入って、連携先の企業の実務家と一緒に法的な課題と倫理的な課題と社会的な課題を切り分けていきます。モヤモヤを言語化していく。それが第一歩となり、前に進むことができます」(岸本氏)。

 「われわれはコンサルタントではありません。確かに、倫理指針を作って、それを社内にインストールするための研修をして…という活動はコンサルタントに近いものがある。でも、分析してアウトプットを納品して終わりというわけではなくて(そもそもそうした動きはELSIにはそぐいません)、『一緒に研究していく』、そのプロセスが重要なんです。研究のプロセスを共有することで、企業の側で関わった人材をELSI人材として育成することもできる。

 メルカリの研究開発組織「mercari R4D」さんとの取り組みも、大阪メトロさんとの取り組みも、NECさんやNHKさんとの取り組みも、やっていることは一つひとつ違っており、定まった形にはなっていません。でも、技術の変化も時代の変化も激しいんで、そうやっていくしかないと思うんですね」(岸本氏)。


画像 ELSI Forumの様子


人文・社会系の産学連携は「ブルーオーシャン」

 ELSIセンターのスタッフの多くは、哲学、倫理学、芸術学、人類学、法学、社会学といった人文・社会系の研究者だ。企業との共同研究に戸惑いはないのだろうか?

 「ある種の応用が得意で、かつ好きな人を採用しているというのもありますが、実は企業活動を含む現実社会には、倫理学の応用分野の問題が本当にたくさん転がってるんですよ。例えばスポーツのルール。『何が公平か』って、めちゃめちゃ倫理学。他の学問も同様です。

 だから僕は、常々『人文・社会系の産学連携はブルーオーシャンだ』と言ってるんです。文献では得られない新たな視点も得られるし、やれることがいっぱいある」(岸本氏)。

 「受託研究ではなく共同研究ですので、分かったことは論文として学会等で発表していきます。それは若手の研究者にとってキャリアにもなる」(岸本氏)。

 そして、講演会や研究会でそうしたアウトプットに触れた企業人が、次の共同研究の担い手になっていく。今では、そうしたサイクルが回り始めているという。

 既に定まった知識やスキルを伝達するのではなく、正解のない問題に取り組み、新たな知を創造していく。それは、大学だからこそ担うことができる役割だろう。

 大学が自らの持つアセットを活かし、社会のアクチュアルな課題に応えようとするなら、そのプロセスはいつもリカレント教育になりうる。ELSIセンターの取り組みは、そう確信させるものだった。



(文/乾 喜一郎 リクルート進学総研主任研究員[社会人領域])


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