【寄稿】大学における人的資本経営のあり方/学習院大学教授・一橋大学名誉教授 守島基博
人的資本経営とは
現在、民間企業では、「人的資本経営」という考え方が浸透してきている。「人的資本経営」とは、経済産業省によると、「人材を『資本』として捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値向上につなげる経営のあり方」と定義される。言い換えると、企業等の組織が、その内外に抱えている人を資本と考えて投資をし、人材の価値を最大限活用することで、企業の価値を最大化していく経営のあり方である。なお、ここでいう企業価値とは、第一義的には、会社等の経済的な価値だが、より大きく企業が社会に対して提供している価値、いわば存在意義を指している。
なお、重要なのは、下線をつけた「人材の価値を最大限活用する」というところである。人材は、単に企業の内や外に抱えているだけでは意味がないのである。人材が持つ人的資本を、価値を生み出し、企業価値を高めるために最大限に活用していくことが人的資本経営の基本だということである。
「人材を大切にする経営」という言葉の意味が変わってきているとも言える。わが国の企業社会や社会一般では、人を大切にし、護り、幸福にすることが、人を大切にする経営だという認識が強い。だが、人的資本経営では、単に雇用を保障し、健康等の面で幸福にするだけではなく、人材として、ちゃんと活用し、企業に貢献できるようにマネジメントする経営を、「人を大切にする経営」だと考えるのである。その意味で、人的資本経営とは、人を大切にする経営のリニューアルでもある。
今なぜ、人的資本経営なのか
人的資本経営が、民間企業で議論されるようになってきた背景には、いくつかの要因がある。なかでも最も大きいのは、企業活動において、新たな戦略を採用したり、新事業等を進めたりすることで企業価値を高める動きが盛んになってきていることであろう。これまで多くの企業は、既存の事業や商品の改善・改良・効率化等を通じて、安く品質の高い商品や安価なサービスを提供することで競争相手と闘ってきた。だが、消費者の個性化や多様化が進む中で、これでは、他企業との競争に容易に勝てない状況が生まれ、イノベーションや新商品、新サービス等で差別化を図ることが必須になったのである。
現存の事業を効率化したり、無駄を省き、スピードを速めたりといった改良・改善による価値創出であれば、ある程度は、機械や技術によって進めることができる。実際、ここ暫く多くの組織で導入されたPCやIT技術等は、無駄を省き、効率化を進めるためであった。だが、これまでとは全く異なった事業を始めたり、新製品やイノベーションを生み出したりといった作業は、現在一般的に利用可能なAI等の水準では難しく、人が新たなアイディアを生みだし、それを新事業やイノベーションに繋げていかないと不可能なのである。
つまり、イノベーションや新事業等、新たな価値を生み出すには、人が必要であるという認識が強くなったことが民間企業で人的資本経営が導入された大きな背景である。さらに付け加えれば、新たな戦略の実現のために財的資源(おかね) を供給する企業の株主等がこうした状況に気がつき始めて、企業に人的資本経営、つまり人への投資を迫りはじめたという要因もある。
現在大学等の高等教育機関でも、多くの改革や“新事業”が行われ、学部の統廃合、新たな教育内容、新たな教育方法等が試されている。そして、こうした改革の成否が、大学のステークホールダー達(学生、学生の親、企業等の外部支援者等) がその大学を選択するかに結びつく時代となっている。企業が価値向上のために行っていることとほぼ同様の状況が、大学等の高等教育機関でも起こり始めているのである。そのため、大学等の高等教育機関も、その組織の社会に対する価値を上げていくために、これまでにも増して、人の力を最大限発揮しないとならない状況にあると言えよう。大学等の人的資本経営は、これまでにも増して重要になってきたということであろう。
大学等における人的資本
では、大学等の高等教育機関における人的資本とはどういう人材を指すのであろうか。大学等には、大きく分けて、2種類の人材グループがある。職員と教員である。このうち、教員という人的資本の質は、大学で行われる教育・研究の質に大きな影響を与え、ひいては大学の価値を高めることに大きく貢献する。またそのため、大学院に始まる人的資本への投資(例えば、育成)には、一定のやり方が確立されている。
もちろん、企業で言えば、研究開発や新商品・新サービス開発部門で働く人的資本であり、一見、そうした人材の質が、その企業でどういう新事業やイノベーションが生まれるかに大きく関わるように思える。
だが、近年のイノベーション研究が明らかにしているのは、こうした人材がどれだけ優れているか、新しいアイディアを生むかは、その企業の企業価値には間接的な関連しか持たないということである(ⅰ) 。より重要なのは、どういう戦略( 大きな方向性) の下でそのアイディア等が構想され、生まれたアイディア等がちゃんと新商品や新事業に結びつくかであり、戦略を考えたり、組織を運営したりする人材が、効果的に新しいアイディアや考えをイノベーションや新事業に繋げていかないと、決して企業価値には結びつかないのである。
アイディアから新事業・新商品までの道のりは長く、アイディア等がイノベーションに結実し、企業価値が向上するかは、組織を運営する側の人材にかかっているということである。そのため、紙幅の関係もあり、人的資本としての教員に関する議論はこれくらいにしよう。
これに対して、大学等で組織を運営する人材は、職員である。大学等の組織の特徴は、職員という人的資本が教員と明確に区別された仕組みでマネジメントされていることであり、私の経験では、教員への人的投資に比較して、職員への人的投資については、やや遅れているという印象がある。
遅れているのは、一言で言ってしまえば、「戦略性」である。人的投資の戦略性とは、一言で言えば、組織や企業等が進みたい未来の姿( ビジョンや経営戦略)を実現する人材の確保と活用へ向けて人的投資をするということである。人的投資というと、育成や採用、キャリア開発等を思い浮かべることが多いが、それだけではなく、評価や配置等多くの施策を使って、ビジョンや戦略の実現に必要な人的資本を確保し、活用しようとする組織の人材確保・活用機能を指す言葉である。
図1に、人的投資の戦略性の概念図を示しておいた。上部にあるのは、実現したい未来のビジョンや経営戦略であり、まず、そこからはじめ、ビジョンや戦略実現のためにどういう人材が必要かを導き出す。そして、下部にある様々な人事施策を用いて、必要な人材が確保・活用されるように、人材投資をするのである。また、もし組織のビジョンや戦略が変更になった場合には、現存の人材を検討し、未来のビジョンや戦略を実現するための人材が足りない、不足していると判明した場合には、新たな人材投資をして、未来のありたい姿を実現するための人材を確保し、活用するということである。
言い換えると、人的資源の確保は、未来ビジョンや経営戦略に従うという考え方である。ある調査によると、民間企業では、3割程度の企業が取り入れていると言われる人的投資の考え方である(ⅱ) 。
先にも述べたように、現在、18歳人口が減少する中で、生き残りをかけて、新たな戦略やビジョンを掲げ、それを実現しようとしている大学等は多いと思われる。だが、そのための職員人材の確保を、経営戦略やビジョンに基づいて戦略的に行っている大学等がどれだけあるだろうか。
もちろん、私の所属する大学でも、一部の人材(IR人材等)の確保のために、特別な投資(採用)を行っている状況も見られる。ほかの大学でもこうした動きを推進しているところもあるだろう。ただ、あくまでも私の印象だが、大学等の高等教育機関では、職員の人的資本の確保・活用のために、新たなビジョンや戦略に基づいた戦略的な人的投資を行っているケースは限定的なように思われる。特に、職員に関してである。
“新事業”の実現には、運営側の人材の確保が必須なのである。大学等の人的資本経営を考えるうえで、最も重要な転換は、こうした戦略的な人材投資の実施なのである。具体的に言えば、ジョブローテーションについて、これまで行ってきたジェネラリスト育成を目指した数年ごとのローテーションを考え直し、一部の職員に関しては、特定の専門性を身につけるための、経営戦略上重要な専門領域に限定した配置転換をする等である。採用でも同様に、戦略的に必要な人材を特定し、中途採用により必要な人材を採ることを目指す等であろう。
これまで行われてきた採用や育成、ジョブローテーションや採用を粛々と続けるのではなく、大学等の執行部は今後のありたい姿を実現するための人材確保・人材活用計画を、戦略的に立て、実行するべき時なのである。
大学職員に求められるもの
こうした中で、大学等の職員の側にはどういう資質が求められるのだろうか。先に挙げた改革による大学価値の向上へむけて、今後職員に求められる人的資本上の資質は、「専門性とリーダーシップ」であろうと思われる。
専門性とは、通常一つの領域での知識や経験、スキル等を指す。先にも述べたように、大学等が、今後は他校と差別化した戦略で戦っていくことが予想される中、これまでと比べて、一定の領域での専門性が求められるのは言うまでもない。私の専門領域は○○です、と言え、まずそうした領域で貢献できる人材が、人的資本として必要な時代になると考えられる。大学職員も、組織全体のジェネラリストである前に、自己の専門性を磨くスペシャリストであることが求められる時代なのである。
だが、同時に求められるのは、単に一つの領域のスペシャリストになることではなく、組織全体の方向性のなかで、自己のスペシャリティを活かし、組織全体のビジョンや戦略を実現するために、他者を動かし、他者と協働できるための力だと考えられる。こうした力をリーダーシップと呼ぼう。
リーダーシップとは通常、組織の長が周りのメンバーを引っ張って動員し、組織目標を実現していく力だと考えられている。イメージとしては、会社の社長や大学の学長、総長のリーダーシップである。だが、最近は、リーダーシップという言葉の意味が大きく変わっており、他者と協働し、人を巻き込んで、目標を実現していく力を、大きくリーダーシップと呼ぶようになってきた。図2に一つの例として、マサチューセッツ工科大学のDeborah Ancona 教授が主張する現在求められるリーダーシップの4要件を挙げている 。これを見ると、今、求められるリーダーシップは確実に変化している(ⅲ)。
なぜならば、解決しなければならない課題が、単一のスペシャリティの知見だけでは、対処できない時代になってきたからである。それほど、現在の組織に突き付けられている課題は複雑化し、多様化している。ひとつの専門性だけでは、十分ではないのだ。新たな戦略の実現や課題の解決には、様々な専門性を持った人材が知恵を出し合い、協働していくことが、必要になってきたのである。
民間企業では、少し前から直面している課題である。今後は、大学等の高等教育機関でも、自己の専門性を活かして、他者と協働していく力が求められるようになる。特に大学の場合、重要なのは、教員というもう一種の人材層との協働であろう。先に述べた、組織の中でイノベーションや新事業を成功させていくのも、こうしたリーダーシップを持った人材に依存する。大学等の組織も、新たなリーダーシップを持った人的資本を戦略的に確保し、活用していかなくてはならないのである。
人的資本経営時代の大学等の人事戦略
人的資本経営が大学等にも導入されるなかで、人的投資も変わらなくてはならない。特に、投資をして新たなビジョン・戦略を実現する人材を戦略的に確保することが求められるようになる。そのためには、特に職員人材に関して、これまでの人事管理のあり方を見直し、改革していくことが必要である。
また職員自身も変わっていかなくてはならない。自分の専門性を磨き、それを使って組織のビジョン・戦略実現に貢献するとともに、周りと協働し、新たなタイプのリーダーシップを発揮する人材になっていくことが必要である。さらに組織側もこうした変化を支援することが求められる。人的資本経営の時代は、変化の時代なのである。
(ⅰ) 軽部大・青島矢一・武石彰 (2012)『イノベーションの理由—資源動員の創造的正当化』有斐閣.
(ⅱ) パーソル総合研究所による調査(2022年、回答数:各社の人事部管理職その他1,647名)
https://rc.persol-group.co.jp/news/202205131000.html
(ⅲ) Ancona, D., Malone, T. W., Orlikowski, W. J., & Senge, P. M. (2007). In
praise of the incomplete leader. Harvard business review, 85(2), 92.