固有の歴史が息づく修学指導と経済支援/琉球大学
琉球列島のランド・グラント大学
琉球大学は1950年5月、米国統治下において首里城の跡地に開学した。1946年に設置された沖縄文教学校、沖縄外国語学校を包摂した沖縄初の大学である。
名称が「琉球大学」となったのも、米国のランド・グラント大学(国有地交付大学)をモデルとし、奄美群島や先島諸島を含む琉球列島の全域に奉仕することを重視してのことだったという。
創設当時は、英語、教育、社会科学、理学、農学、応用学芸学の6学部だったことからも窺えるように、応用分野が重視されていた。農学・林学、家政学、教育行政学など、「実用的」(practical)分野に強いミシガン州立大学から顧問団の派遣を受けた。1951年から68年まで、教職員がのべ51人在沖し、教育・研究や大学運営に関する助言、学外普及講座、授業担当を行っている。
その後、1966年に琉球政府立となり、1972年の沖縄の日本復帰とともに国立大学となった※1。現在の東京ドーム約27個分に相当する広大なキャンパスに移転が始まるのは1977年のことだ。法文学部、観光産業科学部、教育学部、理学部、医学部、工学部、農学部の7学部と9研究科を擁する総合大学として、現在に至っている。
6割を超える県内出身者と県内就職者
琉球大学は今、“Land Grant University”の理念のもと地域との共生・協働によって、「地域とともに豊かな未来社会をデザインする大学」、熱帯・亜熱帯島嶼という地域特性に根ざした「アジア・太平洋地域の卓越した教育研究拠点となる大学」を目指す中期目標を置いている。地域との強い結びつきは入学者の構成にも見られ、沖縄出身者が多いことが大きな特徴となっている。
もともと、沖縄の日本復帰の翌年である1973年時点では、県内出身者の割合が95.2%に上っていた。それが低下し、78年に60%を下回った後は、80年代を通じてこの水準をほぼ維持する。約53%にまで下がることもあった。だが92年以降は60%を上回る年が多くなり、2010年頃からは70%前後と、高水準で推移するようになる。
2016年の入学者1621人の内訳は、県内出身者が1075人(66.3%)だった(図表1)。県内出身割合は女子のほうが男子より高い。女子は641人の入学者(入学者全体の39.5%)のうち、75.2%が沖縄出身者である。男子は980人中60.5%が県内出身となっている。県外からの入学者は九州出身が多く、入学者数の10.1%を占める(男子は12.9%、女子は5.9%)。鹿児島、長崎、福岡の出身が多い。東京、愛知、大阪、兵庫からの入学者も同じくらい多い。
学部別では、沖縄出身者が多いのは法文(84.9%)、観光産業科学(82.1%)、教育(73.0%)である。一方、少ないのは工学部(45.6%)、農学部(46.2%)であった。理学部(62.0%)、医学部(62.8%)もあまり多くはない。先ほど、全体では女子のほうが、男子よりも県内出身者の割合が高いと述べた。これは法文、観光産業科学、教育等、県内出身者が多い学部ほど、女子学生数が多いことによる。
一方、卒業後の就職先地域も、概ね入学状況と似た傾向がある(図表1)。2016年3月の医学部医学科を除く学部卒業者のうち、民間企業、公務員、教員の非正規雇用を含む就職者は884人だった。うち、県内就職の割合は63.1%に達する。県外は、東京の14.6%、福岡の2.8%が多く、九州全体では6.8%となっている。
国立大学では珍しい「16単位未満除籍」
「琉球大学学則」には、その歴史的な背景を反映して、国立大学のなかでもユニークな規定がある。1学年の修得単位が16単位未満の場合(医学部医学科は1年次のみ)、除籍というものだ。なお、卒業要件の単位数は学部・学科ごとに異なり、法文学部等では124単位、農学部等では126単位となっている。
この制度は、開学当時からあった。1951~52年の大学通則には「前学期の成績が少くとも9単位を得ない学生は退学を命ぜられる」(または次の学期に仮在学を許され、成績回復の機会を与えられる)とある。1970年頃の学則でも、学期あたり9単位未満で除籍とされた(どちらも卒業要件は128単位)。今でいうナンバリングも、キャップ制も、昔から続いてきた仕組みのようである※2。
退学・除籍の現状と開学以来の指導教員制度
琉球大学を中退となる場合、現行制度では大きく3パターンある。「願い出による退学」(自主退学)、「懲戒処分としての退学」(懲戒退学)、「除籍」(懲戒処分ではない)である。除籍となる理由には、先の単位不足のほか、授業料未納や在学期間超過等がある。なお、自主退学や除籍の場合(在学期間超過除籍等は除く)、本人の申請で1回に限り再入学できる。
2015年度の場合、学部の退学者数と除籍者数の合計を在籍者数7318人で割り中退率を算出すると、2.34%となる。過去5年で見ると、退学者の数と除籍者の数は、同じくらいだった。退学または除籍の理由のうち、最も多いのは単位不足(除籍)である。次が進路上の理由(退学)であり、授業料未納(除籍)、経済的理由(退学)が続く。「授業料未納かつ単位不足」というケースも少なくない。
文部科学省「学生の中途退学や休学等の状況について」(2014年9月)を基に、2012年度の国立大学の学部のみの中退率を算出すると1.22%となるから、先の2.34%は少し高めの値といえる。独自の「16単位未満除籍」の存在感は大きく、以前から、退学者・除籍者の割合が工学部などで高いことは学内で課題とされてきたが、これは成績評価が厳格であることと表裏の関係でもある。
除籍された学生のうち、おおよそ4割程度は再入学をするというから、この制度は学生の発奮材料となっている面がある。そもそも、除籍とならないように、勉学を促すというのが制度本来の趣旨だろう。そこで他大学のように、「1年目は指導にとどめ、そのうえで2年目も単位が取れなかった場合に除籍」とする等の柔軟な運用も、検討が必要と尾原敏則学生部長は話す。
もっとも、単位不足による除籍は、20年ほど前に比べて目立つようになったとされるが、この数年減少している。琉球大学は開学初期からミシガン州立大学をモデルとし、「指導教員」制度を確立している。現在、学部ごとに年次指導教員が配置され、履修や修学、学生生活、進路などについて学生の個別指導・相談を行うが、16単位未満除籍の候補者への修学指導は、その最も重要な仕事の1つといえる。
琉球大学学生生活委員会『指導教員の手引き』の内容は充実しており、学期始めの学科別・年次別懇談会や、原則、全員参加の1・3年次合宿研修の実施も含めて、きめ細かな指導が行われていることが分かる。学生指導に力を入れていることが、除籍防止に大きく寄与していることは疑いない。
独自の経済支援─授業料免除・学生援護会・後援財団
単位不足に限らず、除籍者数の全体も、過去5年の間に減少している。この1、2年で、顕著に減少したのが授業料未納による除籍である。
沖縄の経済事情を反映して、もともと学生の家庭背景は豊かなほうとはいえない。琉球大学学生部学生課『平成27年度学生生活実態調査報告書』によると、家計支持者の年収が400万円未満という学部生の割合(全学部学生数7318名のうち、回答した学生1683名中830名)は、最近の調査では約5割に相当する。両親が無職無収入のため、奨学金やアルバイトで家計を支えている学生もいるという。
実際、学部生の中で日本学生支援機構の奨学金を受けている割合は、2015年度は5割近くだった。第一種(無利子)のほうが、第二種(有利子)より多い。1999~2003年には休学者のうち、4分の1を「真に経済的な理由」によるケースが占めていたという報告もある(黒田登美雄・岡崎威生「琉球大学における入学者選抜試験の追跡調査」『大学入試研究ジャーナル』No. 16、2006年)。
琉球大学では2011年度から、文部科学省から措置された加算分に大学独自の財源を加え、授業料免除者数の増加に努力している。免除者数の内訳を見ると、2010年度は半額免除がほとんどだったが、全額免除がこの2年で急増し、2016年度前期には685人と、半額免除を上回った(図表2)。半額免除と合計すると、在学者の約17%に当たる。申請者に対する免除者割合も全体で9割近い。未納除籍が大きく減ったのも、この独自の経済支援の効果だろう。
「琉球大学学生援護会」の行ってきた学資金の支給も、特筆すべき事業であり、大学評価・学位授与機構(当時)の機関別認証評価でも「優れた点」とされたところである。現在は学資負担者の解雇・死亡等の場合、世帯収入が200万円未満で経済的に困窮し、かつ授業料半額免除を許可された場合に、年間授業料の25%相当額を給付する事業で、毎年25人ほどの在学生に支給している。
学生援護会の発足は2005年。教職員や大学生協等からの寄附金で、大学院生や留学生の支援を含む学生支援を行ってきた。それが2016年度決算終了後に解散する(図表3)。国立大学法人への寄附金(学生の修学支援向け)税額控除対象法人の要件を満たすため、「琉球大学修学支援基金」へ移行するのである。なお、留学生後援会由来の寄附金は「琉球大学基金」に移行するとのことである。
大学独自の経済支援はほかに、1951年に設立された「琉球大学後援財団」(現在は公益財団法人)による給付奨学金がある。財団の事業全体では、大学院生の研究助成や留学生受け入れの予算が多いが、学部生及び大学院生向けには、個人名を冠した奨学金が用意されている。特定の専門分野の学生に対して、年額5万円、10万円又は20万円を給付するというのが内容である。2015年度は、10人の学部生及び6名の大学院生が受給している。
移民県の歴史を背負った未来戦略
今回の訪問の際、那覇空港には5年に1度の開催を目前に控えた「第6回 世界のウチナーンチュ大会」の横断幕が掲げられていた。かつての移民の子孫など、沖縄県系人の「ホーム・カミングデー」ともいえる県主催行事であり、琉球大学でも、展示や連携イベントを行っている。
琉球大学は戦後、地域住民の強い希望で創設されたが、その際、「移民県」である沖縄の歴史を反映して、ハワイの県系人からの設立要望も見られたという。最初期の沖縄系移民は、1900年到着のオアフ島への集団移民とされる(石川友紀「沖縄県における出移民の歴史及び出移民要因論」『移民研究』創刊号、2005年)。1940年時点の沖縄の海外在留者はブラジル、ハワイ等に多いが、実はパラオなどミクロネシア(旧南洋群島)への移住者は、さらに多かった(宮内久光「南洋群島における沖縄県出身男性移住者の移動経歴」『立命館言語文化研究』20巻1号、2008年)。
そのパラオをはじめとする太平洋島嶼地域の短大からの編入学制度が現在、検討されている。英語によるプログラムの拡充の一環だが、こうしたグローバル戦略にも、沖縄の地域性が見て取れよう。中期計画では「第3期中期目標期間中において外国人留学生等の年間受入れ者数を第2期比で20%増加させる」ことを目標とする一方、「亜熱帯・熱帯、島嶼・海洋、琉球・沖縄文化、健康・長寿の分野における国際共同研究を促進したり留学生の受け入れ・派遣を拡大するため、アジア・太平洋地域に5カ所以上の海外拠点を設置する」ことや、沖縄県系人留学生・研修員の受け入れ等の実施も目標に掲げた。
「短期研修等を含む学生の海外派遣者数を第2期比で20%増加させる」ことも盛り込まれた。琉球大学卒業後は、県外就職活動を支援する旅費支給制度もあり、東京への就職も少なくないことは先に触れたが、沖縄にも一定の県外志向がある。沖縄県の高校からの国立大学進学者のうち、県外進学者が近年は約3割まで増えてきたし、琉球大学の進路変更による退学者の中にも、県外進学のケースがあるかも知れない。教育プログラムの魅力をさらに高めることで、リテンションにつなげることも期待されよう。
16単位未満除籍、指導教員、後援財団等、昔からあるために、普段はその固有性が明確に意識されないような制度が琉球大学には少なくない。それらが有効に機能していることが、今回の訪問でも確認できた。アメリカの影響を色濃く残しながらも、教職員や関係者の努力を実らせ、近代沖縄の歴史にも向き合いつつ独自の発展を遂げようとする琉球大学に学ぶ所は多い。
(朴澤泰男 国立教育政策研究所高等教育研究部総括研究官)
- 琉球大学の歴史については大学沿革誌、認証評価自己評価書、石渡尊子「戦後沖縄における家政学教育の出発」『家政学原論研究』第47号、2013年等を参照。
- (琉球大学二十周年記念誌編集委員会『琉球大学創立20周年記念誌』1970年)。
【印刷用記事】
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