新名古屋キャンパス移転を契機に第二の創学・建学へ/愛知大学
2012年、愛知大学は名古屋駅南ささしま地区に新しいキャンパスを開校し、5学部が移転する。JR東海タワーズ、ミッドランドスクエアなど高層ビルが立ち並び、様々な開発計画が進む産業・文化・交通のキーポイントである名古屋駅エリアという抜群の立地を手に入れたこのチャンスをきっかけに新たな挑戦を模索している。移転の経緯や今後のビジョンについて、佐藤元彦理事長・学長にお話をうかがった。
積年の悲願であった名古屋進出
愛知大学は1946年11月に豊橋市に創設されたが、その2年後くらいから名古屋進出は積年の課題であったという。名古屋の中心地にある車道に校舎は建てたものの、手狭になってきた。車道校舎の拡充を検討したが、当時は工場等制限法の規制があり、名古屋市内で高い建物を造りキャンパスを広げることはできず、周辺地域との関係もあり、最終的には1988年から郊外の三好町(現みよし市)に展開するにいたった。厳密にいえば、三好は名古屋市外にあるが「名古屋キャンパス」という名称を使ってきたのも名古屋進出に対する強い思いからだ。しかしながら、三好は通学の便があまり良くない。名古屋駅から電車を40分ほど乗り、さらにスクールバスで大学に出なければならない。その途中駅には、南山大学、中京大学、名城大学など多くの私立大学が設置されて高い人気を集めており、18歳人口減少という環境の変化のなかで三好の学生募集に困難さが増し、立地の制約を痛感するようになってきた。
その過程で、再び、名古屋の中心部にある車道をもう少し活用できないかが学内で議論された。周辺にキャンパスを広げる可能性について検討したが、住宅地でもあり、土地の確保に難航した。そこで2004年、車道校舎に13階建てのビルを建てた。同年、法科大学院をここに設置するとともに、名古屋キャンパスから法学部の3・4年生を移し、車道を拡充したものの根本的な解決には至らなかった。このように何十年にもわたり、名古屋進出の様々な可能性を模索してきた。
名古屋市による「ささしま再開発提案競技」
こうしたなか、にわかに出てきた話が、名古屋市によるささしま再開発の話であった。当初の名古屋市案では民間企業やホテルなどを想定した再開発計画であり、大学や学校はコンペの対象に入っていなかった。しかし、ささしま地区を国際化の玄関にしたいという名古屋市の再開発のコンセプトが愛知大学の特徴に非常にうまくマッチしていたこともあり、名古屋市への交渉の結果、コンペへの参加が可能になった。
2007年秋にはコンペ応募を機関決定し、12月にコンペが開催され、2008年1月15日に愛知大学の提案が採択された。キャンパス移転は莫大の費用を要する大学史上、最大のプロジェクトであったが、名古屋キャンパス(三好)で学生募集に苦戦していたこともあり、学内で反対する声は強くはなかった。特に事務職員の間で、「ささしまに進出すべき」という強い意見が多く聞かれた。
理事長・学長自身も三好だけでなく、豊橋キャンパスの学生募集にも危機感を感じていた。名古屋市内の大学と単位互換を開始し、理事長・学長が土曜日に豊橋で開講していた授業に他大学の学生が出席していた。熱心だなあと感心し、話をしたところ、地元が豊橋だと聞かされショックを受けた。数字で確認しても、豊橋のキャンパスに通う学生は地元からではなく、西三河、尾張、岐阜出身の学生が多い。このように学内で危機感や立地の重要性が広く共有されていたことが、素早い決断と短期間での企画立案、採択につながったようだ。
各キャンパスの位置づけを明確化
新・名古屋キャンパスを開設するにあたり、三好の名古屋キャンパスは閉校し、2012年以降は、名古屋(ささしま)、豊橋、車道の3キャンパス体制になる。5学部が新キャンパスに移転し、教職員、学生の大移動が行われるこの大きな変化を機に、これまで曖昧であった各キャンパスの個性や位置づけを明確にする(図表2)。具体的には、国際化への貢献がキーワードの名古屋(ささしま)、地域社会への貢献がキーワードの豊橋、高度専門職業人養成がキーワードの車道である。
戦後間もない時期に書かれた愛知大学の設立趣意書にも、「日本が本格的に復興するためには地域が発展すべきで、愛知大学は地元の発展に貢献すべきであること」やそのために「国際的視野や教養をもった人材の養成が重要」だと書かれている。豊橋キャンパスは三河を中心とする三遠南信地域への貢献に伝統的に力を入れており、国際化への貢献はまさにささしまのコンセプトとなっている。
まずは2011年度から豊橋キャンパスが変わる計画だ。文学部にコース制を導入し、また、地域政策学部という新学部の設置準備を進めている。ささしまキャンパスについても、2012年にむけて今できる準備はすでに開始している。同キャンパスでは名古屋国際センターやJICAの協力講座(授業)を予定しているが、すでに車道キャンパスでこの一部をスタートさせた。
2012年に大引越しを実現させ、その後にカリキュラム改革の議論などが高まる効果にも期待をしている。例えば、法学部、経済学部、経営学部は、かつては1つの学部であったうえ、改組当初は他学部分野の授業科目をそれぞれ置き、相互に協力していたが、時が経つなかで協力体制が崩れてきた。公務員試験の合格者数の多さという同大学の強みもこうした伝統によるところが大きく、3学部が再び集まることにより、良い相乗効果が生まれることに期待している。現代中国学部と国際 コミュニケーション学部についてもこうした協力体制が生まれることを狙って、同じキャンパスに移転させる。このようにまず動かしてみて、不十分な点があれば補正をするといった発想で絶えず改革し続ける形にしたいという。
キャンパスの位置づけという点では、名古屋市内の2キャンパスを社会人のリカレント教育(オープンカレッジ)の場としても発展させる予定だ。車道は高度専門職業人養成に力をいれるだけでなく、駅から2分という立地を生かし、シニア向けの講座を、ささしまは名古屋駅からは12分ほど歩くので、働いた後に受ける講座を充実させる。各キャンパスの特徴を出して、大学全体として発展させる構想だ。
規模を拡大し、将来は総合大学化を目指す
ささしまキャンパスに新学部(500名規模)を作る構想を2015年までに固め、最終的にはささしまキャンパスを9000名(うち孔子学院1500名)など学生規模も増やす予定だ。
ささしまの新学部など、今後は理系分野も視野にいれて総合大学化を目指すという。2つの理由がある。ひとつは大学の国際的通用性の観点だ。愛知大学は中国との学術交流が以前から盛んであるが、中国の大学から「理系分野はないのか」とよく聞かれるようになった。中国の大学と交流を深めている他大学の状況を見ていても、まずは工学など理系分野で交流が始まり、それをきっかけに他分野に波及するケースが多い。海外の大学との学術交流という観点から、理系分野への進出が重要になっている。もうひとつの理由は、創学時の将来計画によるものだ。実際に、1946年の大学設置に当たり当時の文部省に出した書類の中にも農学部や水産学部を設置する構想が書かれていた。そこで将来的に各キャンパスの個性を生かし、豊橋キャンパスではフィールドが豊富で地元の理系大学と協力して実績を積みながら、農学や生物系の分野を、他方、都市型キャンパスでフィールドが近くにないささしまでは環境系の分野での貢献を模索していきたいという。
早くも志願者数の増加へ
こうして大転換を遂げようとしている同大学であるが、キャンパス移転の効果は早くも学生募集に表れている。志願者数は一昨年から連続して増えてきた。図表3は一般入試の志願者数であるが、推薦入試も今年は対前年比20%以上の伸びを示した。また併願先の大学の層も変わってきており、 「交通の便が良いとか、校舎がきれいというのは思っていた以上に重視されているようだ」と理事長・学長はうれしそうだ。
同大学は伝統的に、三重県や岐阜県からの進学が多かったが、最近は特に三重県からの進学者が減少していた。三重県内からのアクセスが格段によくなったのを契機に四日市市に入試会場を増やした。また、これまで1日しか行っていなかった地方入試の日数を3日に増やす予定だ。こうした努力も手伝って、志願者が増えたと分析している。
一方で、東海四県以外の志願者についても最近は減少傾向で、全国各地に置かれている同窓会から「もっと全国から学生を集めてくれ」という意見が寄せられるという。そこで、理事長・学長が同窓会の支部総会に出席する機会を利用して、自身が高校訪問をし、「これまで1名しか志願者のいなかった高校からの志願者を2名に増やす」というように志願者が少ない地域に焦点を当てて、地道だが確実に志願者増につなげていく構想だ。「同窓会が活発に活動している今こそやるべきだ」と理事長・学長は力を入れる。
文部科学省の隣に置いている東京事務所の役割も拡大させたいという。関東地方には名誉教授もたくさんおり、一般向けの講座を開設し、この授業をテレビ会議で発信するなど、より活用する方法を検討している。
ささしま完成までの計画と毎年のチェック体制を構築
以上の包括的計画については、2009年度末に作成された第3次基本構想(2010-2015年)「次を拓く愛大2015」にまとめられ、学内に周知されている。最終年の2015年はささしまキャンパスの完成年度に当たるが、これは綿密な進行計画というよりもビジョンという位置づけだという。この6年ビジョンを、毎年の事業報告書で進捗状況を評価し、課題を整理するだけでなく、中間時点の2013年に総点検し、2014年には次の認証評価を受ける予定だ。
この基本構想は、過去2回の経験をふまえて作成の仕方にも工夫をした。1994年に初めて作成された第1次基本構想は学内関係者だけで作ったため、教学関係のことだけが盛り込まれ、経営的な観点が弱い面が否めなかった。他方、2001~2002年にまとめられた第2次基本構想は外部のシンクタンクを使い、トップダウン方式で作成したものの、当事者意識の薄い計画は学内で十分に受け入れられず、一部の計画(法科大学院の設立など)を除いて実施がうまくいかないケースが多かった。第3次基本構想は、こうした反省を踏まえて、例えば研究のことであれば研究委員会が原案を作ることによって、当事者意識をもってもらい、その原案に大学(学長ら)が修正を書き込むというスタイルを採用し、約1年間をかけて学内で作成した。
インタビューで感じた印象として、同大学は理事長・学長を中心に情報や意思の伝達が行われるパターンのようだ。学長選挙で選ばれた学長が自動的に理事長になる規則になっており、学長の権限は大きく、法人と大学の意見の対立が起きにくい構造といえる。名古屋市のコンペへの参加にむけて素早く判断し、チャンスを逃さなかったのもこうしたガバナンス構造の影響があるかもしれない。法人の設置校が大学だけなので、こうした方式を採用したと想像するが、経営判断をすべき理事会が形式的になりがちという問題点を理事長・学長自身が感じており、運用で可能な面についてはできる限り改善し、例えば理事会の開催回数を月1回にするなど改革を進めている。今年初めに理事会のもとにガバナンス検討委員会を設置し、夏ごろにまとめを出す予定だという。
この事例は、一見、立地の良いキャンパスを得た幸運に目が行きがちかもしれない。しかし、大学のリソースを有効に活かした計画の策定、そのための体制作りに至るまで、幅広い点で改革を進めていることが、こうしたチャンスをつかみ、活かす上できわめて重要な役割を果たしているようだ。世界中を震撼させた2008年のリーマンショックの影響を同大学も受けたが、工期を二期にわけ、教室、事務室、研究室をまず確保し、予定通り2012年に新キャンパスを開校させ、当初の計画内容をほとんど変えずに対応する予定だ。こうした点にも同大学の強さが表れているように感じた。
ブランドを磨き、第二の創学・建学へ
今後はキャンパス移転を機に大改革を進めると同時に、愛知大学というブランドを磨くことにも力を入れていく必要があるという。愛知大学は愛知県にあるから愛知大学と名付けられたのではなく、「知を愛する(フィロソフィア)」であることも意外と知られていない。
中国関係や法学の教育という伝統ある強みをさらに活かす方法も探りたいという。愛知大学はもともと1901年中国上海で設立された東亜同文書院が母体で、中国との関係は強い。教育面では、例えば現代中国学部では2年次に全員が4ヶ月間中国で学び(中国現地プログラム)、さらに希望者(毎年100名程度)は3週間の中国での調査やインターンシップ、社会貢献を行う。大学院中国研究科の博士課程では日本で最初のダブルディグリーを導入、修士課程でもテレビ会議で中国と結んだ授業を行うなど、特徴ある教育を行ってきた。また中日大辞典は知られていても、それが愛知大学で作られていることはそれほど知られておらず、今後はブランド形成に同辞典を積極的に活用していくという。法学教育に関しては、設立当初の学長たちが法学者だったことも象徴しているが、人文社会系のなかでも特に法学に強いのも特徴の一つだ。法科大学院の司法試験合格率は私学のなかでNO.1(2009年)であるし、模擬裁判などの現場に密着した教育にも力をいれている。こうした2つのブランドを磨きリンクさせる、例えば中国の法制度の整備に貢献していくなどの方向を模索したいという。
理事長・学長のお話のなかで大学の創設期の話が何度も出てきた。「今こそ原点に立ち戻り創設期のことを勉強し、これからの可能性を探る必要がある。そういう意味で第二の創学・建学なのだ」と。確かに新しい大学を作るような壮大な構想やわくわく感が伝わってくるインタビューであり、5年後、10年後の飛躍が楽しみだ。
(両角亜希子 東京大学大学院教育学研究科大学経営・政策コース講師)
【印刷用記事】
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