学修成果の可視化に向けて(カレッジマネジメント Vol.209 Mar.-Apr.2018)

学修成果可視化は大学の信頼性確保に向けて求められる社会への説明責任

 “学修成果の可視化”に向けての議論が始まっている。その背景を探ってみると、子育て支援、経済格差解消に向けての、教育費の無償化の議論があるように思える。教育費については、小中学校は義務教育、高校も75%は公立であるため、就学前保育・教育と高等教育が議論の焦点となる。政府が毎年発表する『政府の経済財政運営の基本方針(骨太の方針)2017』にも、「幼児教育・保育の早期無償化」は明記されている。しかし、高等教育無償化ついての記載はなく、代わりに「大学教育の質の向上のため教育課程等の見直し、教育成果に基づく私学助成の配分見直し、大学教育の成果の見える化を進める」と言及されている。なぜこのような差があるのだろうか。この理由を探っていくと、下図のような構造に行き当たる。現在の社会の中核をなしている、大学生の保護者や企業の管理職クラスが大学に通っていた1990年と現在を比較したのが、この図である。

 1990年の人口は約200 万人で大学数は500余。これが2017年になると人口は約4割減の120万人だが、大学数は780まで増加した。マーケットが縮小しているのに、プレーヤーが増えるという通常のマーケットでは考えられない状況である。これが、保たれたのは、大学進学率が90年の約25%から2倍の約52%まで増加したからである。大学は全入時代といわれ、定員割れした私立大学の割合は4割に達している。しかも、私立大学では、入学者の過半数が学力試験のない推薦・AOで占められ、高校生からも一般入試の偏差値は操作できるとさえ言われている。さらに、いわゆる学部の名称は2014年段階で700以上になり、現在は800を超えているといわれている。就職活動の現場では、自分の学科が何を学ぶ学科かを説明できない学生もいるという。2015年には、真意は別にして、文系廃止が報道され、大きな議論が巻き起こった。

 無償化の議論は、高等教育にさらなる税金を投入することの議論にほかならない。つまり、高等教育が量的に拡大するなかで、教育・研究の質は担保・保証されているのか、という社会からの疑問が背景にあると考えられる。言い換えれば、どの学部で何を学んでいるのか、卒業時に一体何が身についているのか、定量的でなくても良いので、外からわかるようにしてほしい、ということなのであろう。

 しかし、学修成果の可視化といっても、一体何を可視化すればよいのだろうか。文系・理系、資格取得の有無によっての違い、授業レベル、プログラムレベル、学部レベル、大学レベルといった階層における違い、定量評価・定性評価、直接評価・間接評価等、そこには非常に難しい問題が横たわっている。

 そうしたことから、学修成果の可視化に向けて、今回の特集を企画した。今回の特集では、学修成果可視化に向けた動向と課題を整理していただくとともに、一足先に学修成果可視化の動きが起こった米国の状況や、学修成果の見えづらいリベラルアーツ系の大学がどのような動きをしているかについて、ご寄稿いただいた。そして、学修成果可視化に向けたチャレンジを現在進行形で行っている大学を取材した。まだまだ緒に就いたばかりで、何が正しいかとは言えない状況だと思う。しかし、学修成果の可視可は、入学した学生をどう育成していくか、という本質的な課題でもある。これは社会から大学の信頼性確保に向けて求められる社会への“説明責任”なのではないだろうか。

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リクルート進学総研所長・カレッジマネジメント編集長

小林 浩

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